ーー人は孤独を克服できるのか
顔が崩れ、今にも部屋と同化・分離しそうな男女の絵から本作は始まる。
偉大なるフランシス・ベーコンによる絵画はまるで疲れ切った現代人の様だ*1。
「ラストタンゴ・イン・パリ」(1973)の冒頭は、フランシス・ベーコンの二枚の絵画から始まる。
部屋に横たわる、椅子に腰掛ける、人間。
右手はスカートらしきものを履いているから、なんとなく女性だと予想がつくが断定はできない。
何が彼らを人たらしめるだろうか?
顔は乱れ、体はうねり、今にも部屋と同化してしまいそうだ。
その表情は読み取れないが、なぜか苦しくなるほど、彼らの疲弊さが胸に訴えかけてくる。何故だろう。
何故なのだろう?
私に訴えかけてくる感情はなんなのだろう。
おそらくそれはシンパシーであって、おそらくそれは私が彼らと何ら変わらないからだ。
では、何が私を人たらしめるだろうか?
何が、私を人と定義するのだろうか。
私は今にも、部屋と同化しかけている。
顔は崩れ、乱れ、そこにはカオスが蔓延っている。
私はそれがどうしても知りたい。
そのために、ベーコンのことをもっと知りたいと思った。
人の本質を描き出す魔術師、フランシス・ベーコン。
彼はイギリスのイメージ現代美術の巨匠である。
1909年10月28日 に産まれ、 1992年4月28日にこの世をさった。
死因はある日突然訪れた、ありふれたな死だった。
あの偉大なる哲学家、フランシス・ベーコンは系譜を辿ると見つかる。
彼は哲学家の血を引き、そして男色愛好家としての血を引いた。
彼の絵画の特徴は、初期においては「自己の崩壊」だ。
例えば、彼の代表作、ベラスケスの「法王インノケンティウス10世」の肖像にもとづく周作 におけるモチーフは「法王の叫び」である。
彼の手にかかれば、偉大なる法王すら叫びによる自己の崩壊=一人の人としての自我の再構築というタブーすら許してしまう。
私がこの絵を初めてみたのは、中学生の時だ。
詳しい事はよくわからなかったが、「叫んではいけない」ものが「叫んでいる」様子を見て子供ながらに「ヒッ」と声を上げてしまったのを今でも覚えている。
後期の作品は、「肉体の衝突」に焦点が当てられる。
単純な肉体の断片、放置。
人の叫びという表象は、表情を超えて巧みに表現されていく。
さて、「ラストタンゴ・イン・パリ」に話を戻そう。
本作は、イタリアの偉大なるフィルムメイカー、ベルナルド・ベルトルッチによってディレクションされた。
ベルトルッチは、簡単に言えばフランス映画=ヌーヴェルヴァーグに強い影響を受けた最大の異邦人である。
所謂ベーコン崇拝映画なのだが、内容としてはベーコン後期の「肉体の衝突」要素が大きい。
劇中はほとんどセックスシーンで進んでいく。
二人の男女に名前などほとんど必要ではなく、ただただ机と椅子と、マットレスが存在する雑多な部屋で体を重ねていく。
物理的な肉体の衝突という、映像的には陳腐で汚らわしいものを、見事ベーコンの世界に落とし込んでいるのは、撮影監督ヴィットリオ・ストラーロの見事な技術によるものである。
光、闇、光、影、日常に潜むそれらを使ってベーコンの絵画の表象にすり寄せていく。
余談だが、「ラストタンゴ・イン・パリ」は男女の映画だが、厳密にベーコンワールドを表現するならば、二人の人物は男同士だっただろう。
ベーコンはゲイで、確実に生殖的な意味で融合を果たすことができなかったからだ。
ありえない、それこそが、絵画に現れる虚無感を増幅させている。
さて、もう一度いうと、劇中の男女に名前はない。
厳密に言うと、必要ない。
ただ存在するのは「肉体の衝突」である。
何が人たらしめるか。
人は孤独を克服できるのか。
永遠のテーマだ。
それは他人に認めてもらうことか。
いや、違うだろう。
それはラストを見れば判断できる。
名前は必要ないし、彼らは体を介しても、決して完全に交わる事はできないのだ。
*1:「ラストタンゴ・イン・パリ」評の冒頭。参考文献は私