日々更新しないと、ボキャブラリが死んでいく。
つまり、見聞を広めよということなのだ。
脳が腐ると、人と喋らないと、映画を見ないと、本を読まないと
口から出てくる言葉がおよそつまらないものと化してしまうのだ。
結局今口にしているのは、他人の受け売りにしか聞こえない。
これがババアになっていく感覚か、これが。
高校生から大一にかけて出てきた私のエモーショナルな表現は、もはや死んでしまったのだ、ぴえん。
愛の飽和水蒸気量は満タンなのよ、心もね *1
ふと、考えて、ツムツムの手が動かなくなるものなのです
みんなを蹴落として見る車窓は綺麗ですか*3
痛い、痛すぎる。
でも、この言葉はもう出てこないという事がわかると悲しくなってしまう。
歳を取るとは、きらめきが、ときめきがなくなっていくってこういう事なんだな。
所謂クリエイターの人、文化人の人はこのきらめきをいつまでも光らせ続ける事ができる点で優れている。
誰しもが思春期 青年期の憧憬を抱いている。
さて、この世にはふと突然生まれる詩があるそうだ。
きらめきを、ときめきを持った言葉。
偶然生まれては、消えていく無数の「無名文学」がこの世には存在する。
私の敬愛する「ほむ」は著書*4において、これを「偶然性による結果的ポエム」と例えている。
個人的に心に残ったのは、
『妊娠してなかったらなんでも買ってやる』
とんでもねえ失礼だ。
妊娠疑惑の恋人に向かって投げかける言葉としては最悪だ。
しかし、彼にとっては最善の「フォロー」なんだろうな。
なんでもしてやるから、まじで、妊娠は困る、とな。
にしても最低のフォローだ。
しかし、そこには最低だな!と笑って罵りたくなる不謹慎な美しさがある。
ちなみに結局買ってもらったのはライターらしい。
ここまでつらつらと書いてて、私は言葉の美しさとはやはり滲み出るものだと考える。
けれど、そこら辺にあふれている無数の言葉を「美しい」響きだとか、「面白い」響きだとか捉える感性も、また素晴らしいなと思った。
感性を磨く、日々更新する。
やはりそうしないとボキャブラリは磨かれていかないし、観る目(捉えるのは耳?だけど)も磨かれていかないのだなと感じる。