ほんとうの幸せを探した時に
愛し愛されたいと考えるようになりました。
椎名林檎女史は、こう語る。
作詞当時は、高校生だったらしい。恐ろしい。
椎名林檎の「幸福論」は純愛ラブソングだ。
歌詞の凄いところは、「愛」を論じているところだと思う。
好きな人の強さも、弱さも含めて愛する。
そして、そのためにあなたの哲学=メロディーを守り通す。
好きな人が存在するだけで幸せなのだ。
と。
本当にその通りだと思う。
初めて聴いたのは高校生の時で、その時は恋愛体験なんてなかったからわからなかったけど。
恋愛を通して、音楽の歌詞に共感できるようになった。
クリープハイプをまともに聴けるようになった年だ。
好きな人の、汚いところまで含めて心底愛する。素敵だなあ 。
本当にその通りだと思っていた。
しかし、残念ながら、今の私は保護主義である。
人の心にずかずかと入り込んでくる輩など必要がない。
果たして、「愛」こそが幸福なのか。
林檎女史の幸福論こそが、まかり通る世の中なのか。
もちろん、これも一つの「幸福」を構成する一つの要素ではあると考えている。
人と人、ラブ、なんて素晴らしいんでしょうか。
人には人の幸福の条件があり、心身ともに「コンポジション」がそこには存在している。
だから、心底愛し合う二人は美しいという意見は、一般的に流布しているから、ある程度理解ができる。
しかし、「幸福論」となると話は別だ。
一つの論として、これが幸福であるという論がまかり通る世の中はかなり危険だ。
それこそ、思想統制への始まりである。
私は毎回、はてなのタイトルに楽曲を当てているけれど、今回は椎名林檎に捧げたものではない。
寺山修司の、『幸福論』という書籍に当てている。
この随筆は、アランの『幸福論』を徹底的に否定し、独自の幸福論を提唱している。
自慰行為、変装(コスプレ)、マッチョイズムに存在する幸福、幸福から眺める善・美とは何か。
シラノの鼻や、ノートルダムのカジモド*1の背中の瘤は、何らの実用性をもたなかったという点で、美であったかも知れない。
しかし、マリリン・モンローの肉体には美を超えた重大さーーこの時代の感情の反映としての道徳律のようなものが感じられる。
(略)
我々の肉体の美以外の部分について考えてみることが、「幸福論」を解きほぐす一つの糸口になるのではないかという気がするのである。
親愛なるカイユボットの「床を削る人々」を思い出した。
筋肉がついた、しかし細い腕、労働者の汗。
美とは違う、そこに存在する「良さ」を寺山は善としているのだ。
寺山との出会いや、最近の寺山ブームに関してはかなり話すと長くなるから、いつかかけると良いな。
すぐに書けはしない。
私の人格形成に深く携わっているからだ。
・友や恋人
・健康的な生活
・質の良い睡眠
・エシカルライフ
・美味しいものを食べる
こんな、ステレオタイプの幸せを追求する世の中で、私でいいのだろうかと思う。
なんてつまらない人間なんだろう。
もっと、自己としての、固有の幸福論を作り出すべきだ、論じるべきだ。
私は私しか存在しないし、理解し得ない。
そして、私も他者の幸福論を理解するところから始めなければいけない。
そして、皮肉なことにも、自分が一番ステレオタイプに囚われた窮屈な人生を送っている。
そして、永遠のロマンチストという事が、なんとも、皮肉。
【冗談】
というのも、これはクセの話と似ている。
私は、コップに残った飲み物を1センチだけ残してしまうクセがある。
多分茶渋を飲みたくないとかそういう理由で癖づいたんだけど、なんでも飲み物は浮かせちゃう。
1センチも残っている状態じゃないと、落ち着かない*2。
残された1センチに、その水面にもう一つの対面世界を見出している。
私なりの幸福論。
なんと私の敬愛する「ほむ」も同じクセを持っていて、理解してくれない女の子にフラれたらしい。
偶然にも「幸福論」を共有するって、なんだかドキドキするね。
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