わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

Love Me, Please Love Me

 

 

目の前で起きていることを現実だと受け止める、ということの無骨さよ。

 

受け止められないほどの光景の暴力と、その連続になす術がない。

 

その光景が、「美」の連続であればどれだけ素晴らしいだろうか。

見渡すほどの美、美、美。

美による暴力、なす術ない自分。

 

 

もうフランスに行ってから半年が経過するのかと思うと、

色褪せない記憶の解像度の高さに、驚かされる。

記憶の不確かさに関心深く、私は時こそが全てを破壊するのだと信じてやまないのであるが

長年恋焦がれた街は私を裏切らなかった。

今も裏切らずにいてくれている。

 

むしろ、私が訪れる何百年もまえからそこに佇んでいて、普通に存在していた。

普通だということ、が、私にとっては異常事態だった。

 

 

 

 

 

フランス旅行を振り返ると、数年かけて計画していたため、

パリに関しては、個人的には見慣れた街であった。

パリに関して

街のトイレの位置や地下鉄の乗り方まで完璧にマスターしていた。

見慣れた憧れの街は非常にいい意味で、想像通りだったのだ。

 

想像通りだという意外性を含め、新たな気づきは何点かある。

 

一つ目は自分が想像以上にフランス料理に馴染んでいたということだ。

日本食が恋しくなると思ってインスタントの味噌汁や即席麺を持っていったけれど

全く不要であった。

ひとり暮らしをしながら、ワインに合うツマミを日々研究しているから

当たり前といえば当たり前なのだが、全てのものがおいしかった。

 

二つ目は、美術館の自由さであった。

本来美術というものは人にとって、文化的な意味で必要不可欠なものである。

海外に行かなければ気が付かないことだが、日本の「美術」に対する意識は堅苦しい

美術だけでなく、問題は英語教育や部活動にも言えることなのだが

全てを完璧に、楽しみではなく学びとして経験しなくてはいけないのが日本あるあるな気がする。

 

ルーブル美術館の貯蔵品と建物の美しさを体感できたのは、美術館における自由度の高さが大きく寄与している。

子供たちは駆け回り、おじさんはイーゼルを掲げスケッチをする。

長椅子で眠る人もいた。

こんなにも素晴らしい芸術品に囲まれて、自由に体を動かせたら、どれだけ気持ちいいであろう。

私も少しだけ、美術館で走ってみた。「はなればなれに」の三人のように。

すこしだけ、恥ずかしくて人がいないところで走ってしまったけれど。

 

ルーブル美術館に行った日から、私の小さな夢が、自分の子供をルーブル美術館に連れていくことになった。

親のエゴかもしれないが、全ての美しさをのびのびと享受できる環境を作ってあげたい。

正しいことはどこにもなく、間違ったことも存在しないのだと、示してあげたい。

 

 

パリでは連続して美に痛めつけられてしまったのだが、

南仏ではガラリとその様子が変わった。

鮮やかな空、目が明くような色彩豊かな街並み。

どこからか香る潮の匂いと、開放的な人々。

 

地中海の暖かな風を受け止めるだけで、こんなにも風土が変わるものかと、驚いた。

 

 

ニース、モナコ、マントンに赴いたのだけれど

驚くことに南仏の大きな空が私を孤独にさせた。

仕事を忘れ、生きることさえ放り投げ、ただただ大きな空に囲まれていた。

生身の人間、裸にされた魂に、大きな空がかぶさっている。

 

ニースのプロムナードに寝転がり、

こうやって地球の裏側でぼーっとし続けて、私が瞬きした瞬間に、世界が終わるか、全ての戦争が終わればいい。

無責任にもそう思った。

全ての悲しみが救われるためにはどうしたらいいんだろう?そんなことばかりを考えていた。

だって私はこんなにも、何もない状態なのに、悲しさと孤独さを感じている。

世界の人々が幸せになるためには、一体。

 

地球の裏側に来ても、やっぱり私は私であった。

ずっと私の結論は変わらない。

だから、想像通りなのである。

とてもいい意味で。

 

私はこれからも孤独と向き合う他なく、急に襲いかかる希死念慮と戦う他ない。

ただただ、日常を愛し、感謝することが未来へのささやかな祈りである。

 

 

私は長い年月の間、何度も考えたことの答え合わせをしたのである。

無自覚にも愛してしまったフランスという国の全てが、私にとって正しかった。

 

高校生の時に見たカイユボットの「床を削る人々」に胸打たれ、何度も思い返しては感動していたのだが、

ついにオルセー美術館で、8年ぶりに再会した瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。

「ああ、私は今も感動している。」

高校生の時の無垢な感情と何も変わらず、

ただただ私の奥深く、唯一存在する魂が震えていた。

 

私がこれまで生きてきた人生と行動全てを理解し、受け入れることができたのだ。

 

 

私の夢はなんだっけ?

 

幸せな家庭を築くこと?そんなわけない

世界中のすべてを知ることでもない、しあわせの青い鳥の話と一緒。

幸せはいつも自分の中にある。

 

しかし、圧倒的に忘れられない心象がある

 

パリ、モンマルトル朝5時半。

コーヒーの香りがするアパルトマンで、朝焼けを見ている。

サクレクール寺院の鳥たちが朝を告げる、

その光景は、本当に涙が出るほど美しい。

 

 

私はまだこの光景を目にしたことがない。

しかし私は何故か忘れることが出来ない。

 

 

なぜだか、心に焼き付いた風景がある。

私はそれを確かめるためにこれまで生きてきたのだと、そしてこれからも生きるのだと、

なぜだか、自信を持って言えるのだ。

 

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街へ出ようよ

 

『花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ』 井伏鱒二

 

 

春は旅の季節である。

個人的に。

 

人は、出会った時から、すでに別れている。

別れという一直線の結末に向かって、遅かれ早かれ進んでいく。

春に咲く花の運命が、散りゆく以外に無いように。

 

 

ならば私は、誰も知らない場所に行きたい。

別れが世の常だから、

それは私にとって辛すぎることだから。

それを受け止めなくてはいけないのが、人生だから。

旅では、別れを受け入れ、むしろ別れるために出会いたい。

 

私のことを知らない街に行きたい。

もう2度と会うことがない人に出会い、

好きな音楽を聴いて、少し涙する、

でもそれもすぐに忘れてしまうのだろう。

お酒を飲んで、空を見上げたい。

空も雲も吹き抜ける風も、1秒先にはもうお別れしているけれども、

そんな刹那的な人生を抱きしめていきたい。

 

そんな季節は、決まって春である。

 

 

私は今名古屋に来ている。

一人で旅に出てきた。

 

立ち飲みビストロでワインを三杯ほど飲み、寒空の下ショートドリップを飲んで、息を吸い込んだ。

言葉では言い尽くせない、

無常の幸せだった。

 

これが私であり、私の人生であり、幸せであるのだ、

 

絶え間なくやりきれず、寂しいことは主に対人関係に発生する。

 

しかし、自分の感情とは、お別れすることができない。

それもやっぱり私である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『人は自分の死を予知できず、人生を尽きせぬ泉だと思う。 だが、物事はすべて数回起こるか起こらないかだ。 自分の人生を左右したと思えるほど大切な子供の頃の思い出も、 あと何回心に思い浮かべるか?せいぜい4,5回思い出すくらいだ。 あと何回満月を眺めるか?せいぜい20回だろう。 だが、人は無限の機会があると思い込んでいる。』

「極地の空」 ポール・ボウルズ

 

今日までそして明日から

 

自己肯定感が低い。

 

という問題に対して、真剣に向き合って、ある程度の最適解を見つけざるを得なかった就職活動期から早三年だが、

私の実存的危機はまだ一部しか解決されていないのだろうと思う。

 

人格形成に問題がある。

1番目の子供だったから「かわいいかわいい」と言われて育ったけれど、

明らかに三年後生まれた弟の方が可愛かった。

小さい頃は比較対象が限定されるから、弟のことが憎くて憎くてたまらなかった。

 

より一層問題と化したのは、小学校だったと思う。

私たちが小学生のころ大抵「足の速い子」がチヤホヤされた。

次に「頭がいい子」。

あとは手がかかるから可愛くて「先生のお気に入りの子」。

合唱の時に「ピアノが弾ける子」もポイントが高い。

みんな何かしらすごいところがあって、人より秀でているとチヤホヤされる。

秀でると言っても、それはそれで小学校という小さなコミニュティなのだが、子供にとっては大きな社会だった。

 

私は小学校2年生の時には全く九九が覚えられなくて、先生に見せしめにされたことを今でも覚えている。

結局その時、アカハラ的な先生からのプレッシャーで摂食障害になってしまったのだが。

 

運動に関しても全くダメで、他人に迷惑をかけてばかりだったし笑われてばかりだった。

よく考えれば二重跳びも逆上がりもできなくて、入部したバスケ部は一年でやめてしまった。

 

音楽も、吹奏楽部に入ったのにもかかわらず、集団行動へのプレッシャーと、才能の無さに気がついて一年でやめてしまった。

 

長続きしたことといえば書道くらいで、一度集中してしまえば一二時間はすぐ経過したように思われた。

他人を気にしなくていいからな、自分で一人で集中できるっていうのがすごくいい。

 

 

何もできなくても努力をしていなかったわけではない。

色々比較対象になる中で、勉強に関しては苦手な数学を全捨てし、得意分野を伸ばすことである程度なんとかなった。

その結果ある程度の大学に進み、ある程度の社会への絶望をかかえながら、なんとか自活できている。

 

そもそも一人暮らし自体が完全に自己完結の場であるから、もう他者に怯えながら生活する必要はない。

仕事だって、一から十までランキングがつけられる超競争社会の営業職だが、「お金をもらっている」という最大のメリットには勝てないよなあ。

 

色々考えていると、ほんとうに自分は人間が苦手なんだな。

仕事以外でメリット、デメリットを考える人間関係は持ちたくないし、

他者からプレッシャーを受け続ける生活はキツい。

 

部活だって、あんなに自分の時間を費やして「自己満足」だなんてアホくさい。お金くれないとやりたくない。

日本の部活文化(特に小中学)だいぶ歪んでいると思う。

みんなプロを目指す訳じゃないんだから、楽しくやればいいのに。

 

 

ちなみに、小学生の時「先生のお気に入り」で「ピアノが弾けた」あの子、それなりにいい高校に進んだと聞いていたけれど

結局大学で同じになった。

だいぶ鼻につくやつだったので、彼女に何度も自己肯定感をゴリゴリ削られたけど

しっかりと飲みサーで暴れているという話を聞いて安心した。

 

人生なんて、どこでどうなるかわからないのに、

幼少期の劣等感を一生引きずっている生き方はかなり辛い。

もしも自分に子供が生まれたら、なんて考えてしまうけれど、

甘やかす、なとは違う、優しさで包んであげたいなと思う。

 

 

 

 

The Godfather

 

電子の波を漂う、残酷な言葉や噂が

面白おかしく流布されていく現状に耐えられず

X(旧Twitter)を一時アンインスールした。

仮想敵と戦わないことを選んだ、少し心が軽くなった。

 

いい加減な奴らが、言いたいことを言って人を傷つける世界で

「言いたい奴らには言わせておけばいい」と思って生きていけばいい。

私に間違いなく必要なのは、精神的な喜びであり

それは文化的な生活と、愛すべき人と過ごす他愛のない時間である。

 

出来る限り自分の考えていることや感じたことを記録に残しておきたい。

それが私の何か、愛した記録になれば良い。

 

父の話をする。

父はコッポラの「ゴッドファーザー」が好きなのだけれど、私は一緒に見たことはないし、

もっといえばドンコルレオーネが襲撃された後はいつも寝てしまって、

ゴッドファーザーの1を最後まで見ることができた試しがない。

でも、イタリア近郊のマントンのプロムナードで、ニーノ・ロータのテーマを聞いたのは

なかなか味わい深かったな。

 

よくよく考えれば父から映画を見ろと言われたり、同じ作品を一緒に見たこともあまりない。

何か教えられたこともないのだけれど、行き着く先が共に「映画」であった。

それってとても運命的であるし、家族だなあと感じる。

 

今年のお正月も、そしてこれからも父と母が共に過ごすことはないのだが

父は父なりに父をやっている。

出来合いのお節の具を買い集めて、お重につめてくれるし

かつて母と共に行っていたように、年末年始の買い出しは1日がかりである。

私が食べることを想定して大量のポテチを買ってくれる。

 

中でも心地が良いのは、気を使わないということだ。

私は神を信じていないけれど、わざわざ信じないことを強調するべきではないと思う

だから、イベントとしてのクリスマスもお正月もそれなりに楽しもうと思っている。。

だけれど、1時間以上も並んで初詣をしたいとは思わない。

神社の目の前までいって、お賽銭もせず遠くから参拝をし

ミスタードーナツを買って帰ってきた。

 

何もお正月らしくない、神に背くような儀式だが

それが許される、というのがとても心地よい。

フリーダムである。それでいいしそれがいい。

これが家族なのだなあと、思うまで私には24年の月日を要した。

Modern Love

 

こんばんは、2023年12月12日の23時19分です。

私はなんとか生きています。

「あれだけ死ぬ死ぬ詐欺してきたのに大丈夫かよ笑」

と自分でも思っていますが

生きることは多分尊いことだと思うので自分を否定せずに行きたいです。

 

これまでたくさんの遺書を残してきたけれど

まあなんとか私はまた生きていくのだろうと諦めることができました。

 

もうシャンプーの詰め替えを買うたびに使い切れるか心配することもないし

未来の予定を立てて、友人に申し訳ない気持ちになることもないでしょう。

 

 

私の人生は全てにおいて、予防線をはっています。

未来の自分に嫌われないように、がっかりしないように、期待しないように

そうやって生きようと今までしてきた、

ある程度の中期間の目標を定めて。

 

私にとっていつしかその目標は

フランス旅行に行くことであり

愛する人を見つけることであり

25歳まで生きることになりました。

 

だから私も「ポール・ゴーギャンみたいなりたいです」って言いたいな。

私は、25歳のある日、何もかも捨てて、解脱する、「生まれた理由」を知った時、何かが私の主義になる。

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2年以上前から希死念慮えぐ。

間違いなくここ数年間の「大長編」を終わらせた感じでほっとしています。

 

まずフランスに関して。

フランスは私の原風景であります。

大学時代目標を見失ってしまって、どうにもならず、

生きる目標として掲げた幻想の都市。

学生時代は1日バイトを2件ハシゴしたりして貯金したけど

コロナで叶わずやっとやっと今年行けたわけです。

 

正直、フランスに行くことが怖かった。

頭の中で作り上げた理想郷を現実に目の前にするときっと私は絶望してしまうとおもったから。

いっそ行かない方が、私の好きな「永遠」にふさわしいのかもしれないとまで思いました。

 

 

事実、フランスは私の思い描いていた通りでした。

想像通り。

想像通り、私の世界の中で一番美しくて、美しくて、本当に美しかった。

私がかつて愛した人々が愛した街、パリ。

その人々の息遣いが、耳元ですぐ聞こえてくるようで、憧憬。

 

生きるのがどうにも苦しくて、ニースのプロムナードを号泣しながら歩いたり

朝焼けを期待して、「ModernLove」を聴きながらマントンのプロムナードを爆走したり。

語り尽くせないですね。悪いことなんて一瞬もなかった。本当に素敵だった。

いつかまた思い出しながら文章がかければいいな。

 

 

私は今まで愛すべき人をたくさん傷つけてきたけれど、それにも収集がつきそうだと思う。

私にとってやはり性欲は愛ではないし、それを頑張る必要もない。

 

それを頑張れという人もいない。

私は私のままでいいと思うし、

未来に絶望をしないように、

「またフランスに行きたいね」って言ってくれる人がいるだけで

私はまた生きていけるような気がしているのです。

 

相手に愛想を尽かされないように、なんとかしなくては行けないとは思っています。

あまりにも私はわがままだし、つまらないわ。

それでもただ言えるのは、ありのままを愛してくれてありがとう。ということです。

 

なんだかちょっと、もうちょっとだけ頑張ってみますね!

 

 

映画

 

私は映画が好きだ。

本も音楽も好きだが、とりわけ映画が好きなのだ。

映画が好きな理由はたくさんあるけれど、特別な理由があるわけではない。

 

カルチャーの手段として様々なメディアがあるが、「好きだ」と自信を持って言えるメディアが映画だっただけだと思う。

だからこそ、特別、映画が優れているとは思わない。

いろいろなものを手に取って、私に取って形に収まるものが映画なのだ。

 

「なぜ映画なのか?」

よくよく考えてみると、

私は社会が築き上げた共同幻想のような概念が好きだ。

それは時に宗教やアートの潮流として世間に姿を表すが、

「映画館」という場所はまさに共同幻想の縮図のような形になっている。

 

複製されたメディアを圧倒的に一方的に見せる場としての映画館。

様々な境遇の人が、同じものを見て様々な感想を抱き、時に笑い、泣き、時間が止まるような驚きに包まれる瞬間すらある。

 

かつて私もそんな幻想の一部になりたくて映画業界を目指したが挫折してしまった。

デイミアン・チャゼル監督「バビロン」(2023)では「映画という大きな何か」にとりまかれたい主人公を描いている。*1

私もそうなりたかった、大きな幻想の一部に…新興宗教の教祖になりたいという願望も、共にそれは誇大妄想に近い。

 

私の幻想を叶えるという意味で、「映画のための映画」が私は大好きである。

「映画のための映画」とは、映画の権威を表したり、メディアそのものに対するリスペクトを映像化したものだ。

ざっと例に挙げると

グラインドハウス」「アメリカの夜」「映画大好きポンポさん」

ホーリーモーターズ」「千年女優」などなど。

などなど。

 

いろいろあるんだけれど、私はこれが好み。好きなジャンル。

 

「好きな映画」「面白い映画」と「優れた映画」はこれは全然別である。

映画の技法として、映像表現が優れていたらそれはアートであるし

脚本が優れていればそれは人々の心に強く訴えかけるストーリーだろう。

映画は総合芸術だから音楽が優れている場合もある。

 

何が優れているか、は毎年のショーレースがなんとなく教えてくれるわけだ。

アカデミー賞にノミネートされる作品は明らかに世相を反映しており、

派手なエンタメ作品は基本的にスルーされる。

社会的意義を求めるのであれば映画は説教臭くなってしまうのである。

*2

 

好きなものを好きになればいいし、社会的に認められた「優等生」をたくさんみることも確実に意義がある。

しかしここに、

「好きでも面白くもなく」

「優れているともいえない」

映画がひと作品ある。

 

ミヒャエル・ハネケ作「ファニーゲーム」である。

本作は、ある湖畔にやってきた家族を襲う理不尽なゲームを描く作品。

理不尽なゲームとは、見知らぬ若者に特に意味もなく暴力を振るわれることであり、

何の変哲もない日常が一変するという点ではかなり興味深い状況かもしれない。

 

一見すると、よくあるスプラッタ映画やホラー映画の粗筋であるが、本作には異常な点がある。

それは

「暴力シーンで暴力を見せない」ということ

「行動に対する明確な理由がなければ結末も存在しない」という心底理不尽なものだ。

 

人々は何か話を聞く時に共感や関心を持ってして面白いと感じる。

面白い話をあえて映画で見るということは、ショッキングなシーンを目で見たいという欲望からなるものであるから、

その点を叶えていないということにおいて「ファニーゲーム」は面白くもなく優れてもいないであろう。

 

しかし、私はこの映画が

「映画のための映画」という面においては大変優れていると思うし、大好きであるのだ。

 

「何か面白いものが見たい」という人間の欲望はかなり過激なものである。

人々の欲望を叶えるために日々実体とかけ離れたCG表現が開発される。

私たちの住む世界とかけ離れた映画の中で、存在しない人の血が多く流れ、そこには理不尽な暴力が蔓延っている。

暴力や過激なものをみたい、

わかりやすく感動をして、涙を流したい、

そしてストレスを解消したい

 =カタルシスを得るため映画

という映画の発展は、現代人の闇を反映しているとも言えるだろう。

 

この悲しみに対抗しているのが、「ファニーゲーム」であると私は思う。

 

似たような意義を持つ作品は他にもあって、それはコーエン兄弟の作品群…「ノーカントリー」やそれに影響を受けたマーティン・マクドナー

ハリウッドから隔離されたヨルゴス・ランティモスの作品群などが挙げられる。

 

これらはいわゆる「モヤモヤ系」「理不尽系」であり、消してその場で感動や衝撃として消化されるべき作品ではない。

しかし、「わかりやすくおもしろい」手軽に消費されるショート動画が流行る現代において、何か共同幻想として人々が思いを馳せる、考える場を提供することは、人類の感情のための最後の救いのように感じられる。

 

大衆にとって今すぐ幸せになるために、必要とされている作品では決してないのであろうが、人間の感情の摩耗に立ち向かっているこれらの作品が、私は大変に好きなのである。

 

*1:デイミアン・チャゼルは「ララランド」では映画人を、「セッション」では音楽人に焦点を当てた。「バビロン」にも共通するが、夢を叶える人をテーマにしている。

*2:その点、「ブラックパンサー」がアカデミー賞にノミネートされたのは、マーベル作品である点ということからみるとかなりの驚きだったかと思う。

スーパー、スーパーサッド

 

「幸せになってね」

わたしってそんなに幸せでなさそうに見えるのか、な。

わたしはとても幸せであるし、これ以上幸せになる必要なんてないのにな…

人はなんでも求めすぎなのね。

 

でもちょっぴり、嬉しかった。

好きな人の幸せを全力で願うことの美しさ、わたしの幸せを願ってくれる人がいるというだけでわたしは存在している価値があるのかもしれないと、思ってしまう。

 

そして私も誰かの幸せを願っているということ、幸せは相対的であるかもしれない、

がわたしの周りの愛するべき人にとっては絶対的であってほしいと思った。

 

 

 

 

「死のうと思ったことはあるの?」

と恋人に言われてちょっと傷ついた、

というのも完全に見透かされていたからである。

 

『学生時代はずっと思っていた、今考えるとアホらしいわね』

と、ちょっとだけ嘘をついた。

学生時代死にたいと思っていたことは本当である、でも、今も少し、かなり確実に思っている、少し嘘をついて申し訳ない気持ちになる。

 

時間が解決してくれると言ってくれた事象は私には全く永遠であった上、

日々はすり減り私は永遠に傷つき続けながらも生きている。

それでも生きていく他ないんだよ、と自分に言い聞かせては、気が遠くなりそうな将来に嫌気がさす。

それならば気軽に選べる死を選んでしまいたくなる。

 

恋人に

「辛いと思ったことは数あれど、死にたいと思ったことは一度もない」

と言われてちょっと傷ついた。

わたしは常に死にたかったから、ちょっと、切なくなった。寂しくなった、悲しくなった。

 

死を意識することは悪いことではないと個人的に思っている。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

死を理解することで、いつでも死ねるということを意識することで、生への責任感は少し、減った気がする。

 

でも、もし自分が好きな人が、死にたいだなんて言っていたらだいぶ悲しくなる。

 

わたしという世界でその人を包んでしまいたいから、でもそれはきっと愚かな幻想なのであろうと思う。

 

だからとっても申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。

わたしは誰のために生きているのではない、わたしはわたしのために生き、そして死にゆく運命なのであるが…。