わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

私以外も私

 

 

小説を読み終えた後の、何故か自分が、あたかも主人公の様に思索してしまうのはなんなんだろう。

 

「私はこう、思った。」

「私はこう、した。」

 

丁寧に句読点なんか打ってしまったりして、笑っちゃうよね。

所詮、自分という世界しか把握できないちっぽけな人間にとって、自分が世界の中心と考えてしまうのも無理はないし

私はこれを書いてて、もっともそれに近い人間だと考えている。

 

いつもああだなあ、こうだなあ、でもそうだよなあと頭の中を反芻する自我との対立。

自我と対峙すればするほど、「私」の中は「私」で溢れていくのだ。

 

 

そうやって「私」が外に溢れてしまうとどうなるのか。

自分を悲劇的に語ることはしばしば、自分を何か下等な存在まで引き下げる。

悲劇のヒロインを演じることは浅はかで、陳腐な自分を醸し出す事と同じだ。

しかし、一方でそのような事を把握して、「安全弁」を持つことは果たして幸せなのだろうか。

本当に大切なことは何も言えないままで、いつもどこか相手を慮ってしまう。

他者の存在を無下には出来ず、自意識には抗えない。

 

 

時には心を許せる相手を見つけた方がいいし

そうじゃなきゃ自分が抑えきれなくなる時がある。

 

ふと自分が見ている風景は、自分の色眼鏡にのみ歪められた世界の様に見えてくる。

一瞬前までは普通に見えていた世界が、急に虚しく感じられる。

 

もちろん結局、人間はひとりぼっちだ。

どうにかして人とわかり合いたいから会話をする。

対話をする、角だらけの思考がぶつかって丸みを帯びる。

 

私はいつか、丸まった思考が融合する様な至高の体験をしたいとばかり考えている。

しかしそんなものは結局幻想なんだ。まやかしでしかない。

人は、個人だ。

 

 

私の中から、丸まったものが細胞分裂していく事はできるけど融合は果たせないだろう。

だからこそ、私は自分の子供が怖い。

自分次第でどうにでもなってしまうからだ。

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