わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

Klee

 

美術は、人の暮らしを豊かにするのか。

 

 

最近ボヤッと考えていた。

 

私は暇さえあれば美術館に行く、と言うか暇すぎで行くようになった。

 

東京都写真美術館

アーティゾン美術館

DIC川村記念美術館

東京ステーションギャラリー

国立西洋美術館

 

ここ2,3ヶ月くらいのうちに訪れただけでも、これだけある。

 

大抵一人でブラブラとみて、気になったポストカードを4,5枚ほど買って帰る。

こんなルーティンが始まったのは、高校2年生の時だ。

国立西洋美術館で開催されていた「オルセー美術館展」に行き、ただただ感動した。

 

その時は、ただただ美術館に行く事がかっこいいだとかおしゃれだとか考えていた。

とりあえず、印象派だとか、ゴッホだとかが好きと一とけばいい風潮があったから。

中野京子先生に感化されて、テキトーにレンブラントとかベラスケスが好きなんていっていた時期もあった。

 

今考えれば印象派にも流派があるし、睡蓮なんか見飽きたから全然好きではないのだが…。

 

 

とにかく美術に触れた事で、感性が刺激されたのに間違いはない。

美術が私の人生を変えた、といっても過言ではない事件は高校三年生の秋、「ダリ展」でのことだった。

 

ダリ=時計と髭のおじさん

という印象しかなかった私が、衝撃を受けたのは、人が見えない、心象を表現して見せる、という事だった。

 

それまで印象派の鮮やかで可愛らしい色彩しか知らなかった私は、現実から離れた幻実の世界を描くダリに、そしてシュルレアリスムに倒錯していくことになる。

 

敬愛するヤン・シュヴァンクマイエル監督に出会ったのはそのすぐ後のお話。

 

 

ダリは好きだが、映画や音楽の趣味を広げていくみたいに芸術の趣味も広がってきたと思う。

それから私はクレー*1に出会い、モンドリアンに出会い、最近ではベーコンやホッパーに想いを寄せるようになった。

 

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彼らの特徴は、やはり見えない世界を描くことにあると思う。

私のこの爆発しそうな悲しさや、この世の言葉では表現できない虚しさ、何か人間の弱さというものを、感性を使って紡ぎ出す彼らは超人だと思う。

 

とにかく、私はクリエイターそのものでも、彼らが紡ぎ足す言葉でもなく、

彼らが描いた「何か」に、唯一私の生理的などうにもならない感情を理解してもらったと思うようになった。

 

唯一の理解者は、アートの中に存在する。

 

ダリが描く「目」は私の心を見透かす虫眼鏡で、ポロックの表象は私の心象で、ゴッホのひまわりは疲れた私そのもののような、そんな感じがする。

 

そうやって芸術に倒錯してきたわけであるが

アートは果たして「人の暮らしを豊かにするのか」

 

直接的に言えば、アートは私のことを幸せにしているのだろうか。

正直、アートを楽しんだって、特に私が好きなアートは私を励ますわけでも元気付けるわけでもない。

 

映画でも言えることだが、ご都合主義の映画よりもグロテスクでシュールな話や、宗教的神話の話が好き、つまり暗い。

 

 

暗いのだ。

アートを楽しめば楽しむほど、暗く、思考の深淵に落ちていくしかないのだ。

 

 

 

ロンドンの「ナショナルギャラリー」が市民の私生活を豊かにする市民による、市民のための美術館だったように、確かに私たちの暮らしの一部に必要な娯楽や、教養というものになるだろう。

 

実際ナショナルギャラリーを開いたり寄贈した人々は資産家だった。

その昔は貴族が楽しんでいたものだが、いずれにしてもアートを守り、そして価値をつけるのは金持ちだ。

 

 

マルセルデュシャンの小便器が価値を持った経緯のように、結局は人に評価されていく。

 

資産家や貴族のように教養がある人間がそのような精神的世界、芸術的分野に足を踏み入れることは何も問題ない。

 

問題は、私のような金のない一般市民が、アートに口付け、深淵へと引っ張られることのように思える。

それらを受け止めるだけの人生経験と、金銭的余裕と、人生計画がうまい具合にうまくいっていないように思われるのだ。

 

こんなことを考えていると最近のバンクシー問題もなんだか理解できてくる気がする。

 

バンクシーは自身の美術展を「フェイク」だと批判している。

 

彼の行為はあくまで違法だ。

しかしそれでもなおその辺の落書きと違って評価され、そして本人が商業批判があるのには理由がある。

それは街中にパフォーマンスアートとして出現するものだからだ。

売買されるものではなく、社会の表象といったほうが正しいのかもしれない。

バンクシーはお高い人の評価がつくアート()ではなく、社会現象である。

 

だからこそ私たち市民により寄り添い、衛生的で健全な思いとして受け止められるような気がする。

 

もちろんアートにも金を払わねばやっていけない。

社会や人を表現することは神の領域だと考えているし、尊敬している。

残念ながら、私は自分を表現するだけの才能を持ち合わせていない。

 

絵は並み、音楽は並以下

でもなんとか外に出したくて、

伝えたくて、聞いてほしくて、楽になりたくて、

私は言葉を使う。

 

だからクレーの絵を見て 落ち込むのは

僕が擦れたから 擦れたからか

 

見えないもの 描きたくて

僕は言葉を使う 使う

 

open.spotify.com

 

*1:クレー自体はずっと前に知っていたんだけど、魅力に気がついたのはそれからの話