わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

美しい

 

昔、遠い未来の愛すべき人に向かって、愛していると叫んだことがある。

誰か愛しい人に出会ったときに、なぜもっと昔から出会えなかったのかと後悔したからであった。

 

待ち焦がれてる人よ

遠く離れた旅人よ

ちらばる恋人たちよ

寒さにふるえる君も

 

ふと、普遍的な美しいものを探す為に生きているのだと思った。

 

普遍的ってなんだろう、私は普遍的という言葉がとても好きでよく使うんだけど、それは遍くこの世に共有され、その例外がないものを言う。

 

人というのは付かず離れず、ばらばらだから、世界に共通した感覚というのがあるのか、疑問ではある。

だからこそ戦争は無くならないし、人は傷つくし

だからこそ違うものが生まれて、新たな文化が紡がれていく。

 

普遍的なものがある、というのはある意味、一つに統合しようとする暴力性を持っているように感じられる。

 

しかし、普遍的な美とは、なんだろうか。

 

私にとっての美の象徴は、「目」なのだが、極端過ぎるかもしれない。私は好きで好きでたまらないんだけど、広く知れ渡る美しさというよりもフェティシズムに近い。

 

遍く、人類が、なんの先入観も文化観も持たずに、ただただ恍惚する何か、そんなもの。

 

ミケランジェロの彫刻が

オリュンポスの神殿が

バッハの旋律が

リルケの詩が

プルーストの物語が

 

それらは何かを、人類を超越した美しいものに感じられる。

圧倒的な美しさの前では、人は屈服する意外になくて、ただただ無力に感じられる。

 

普遍的な美とは、究極的に言えばシンプルさと近いのだという。

コルビュジェの建築であったり、無印の雑貨などを想像して欲しい。

あれらは、人類にとって必要な要素を保ちつつも、究極的にシンプルに、作りあげたものだ。

シンプルというものは、意味がないように見えて、意味しか存在しないのだが、それらが世界に溶け込みすぎて一見なんでもないように見える。

 

例えばハイブランドのマルジェラの話をしてみようと思う。

マルジェラには、洋服のタグをつけるときに裏側から見える四角の縫い目が施されている。

私は最初マルジェラの洋服を見たときに「なんだこれ」と思ったんだけれど、このタグにはシンプルさと匿名性という意味が込められている。

 

この匿名性とは、「ブランド名やロゴを排したときに現れる、真に美しい、そして良質なものとは何か」ということだった。

つまり、ブランドや名前というのは偶像で、ラベリングである。

ブランド創設者の意図を理解しなければ全く身につけている意味がないと昔書いた。

 

ka7788.hatenablog.com

 

シンプルさの中に、隠された情熱にこそ、美が存在する。

 

 

少し前に四国に行った時の話をしようと思う。

香川県の直島に存在する「地中美術館」に行ったときのことだ。

直島全体は、アートサイトになっていて、多くの作品や建築があるのだが、安藤忠雄の建築が見どころで、地中美術館もその一つだ。

 

わたしは、美術館というか、なにか建物に入って初めて「恐ろしい」と感じた。

なにか、遠い昔の神か、遠い未来の神が作り出した異形の存在のように感じられたからだった。

 

地中美術館というのは、その名の通り、地中に存在している。

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これらの三角であったり、長方形の「穴」こそ美術館の天井に値するのだが、その建築方法がすごい。

 

まず直島に山が存在していて、その山を一度切り開く。

その中に筒状のコンクリートの建物(壁というべきか)を作る。その中に美術品を配置する部屋を作る。

そして、建物が完成した後、又もう一度山を再建して美術館を取り囲んでいるのだ。

 

完全に地中に埋まった存在。

私は足を踏み入れたときに、その大地の温もりを感じた。

その一方で、コンクリートの冷たさを感じ、空に広がる大きな曇天に恐れ慄いた。

 

そのとき、私は完全に大地に包み込まれていることを理解した。地球というのは暖かく、人間が抗おうとしてもどうにもならない。こうやって人類の英知である建築技術を用いて、なんとか建物で私は守られているのだと、そう感じた*1

そして、涙が出るほど美しいと感じたのだった。

 

圧倒的な生命の恐ろしさの中にこそ、美が存在する。

 

 

これが私の美学。

普遍的な日が存在するかはわからないが、私が微睡ながら、心底恍惚してしまうもの。

 

 

そして、私の美学を象徴づける大きな出来事が起こった。

それはよくある話だ。

行きずりの男と話をし、飯を食い、そしてセックスをした。

私は長らく生まれてから性的なものに対してひどく抵抗があって、それらをおおっ広げにすることは馬鹿で恥ずかしくて、知的な行為ではないと考えていたからだ。

 

しかし、その日はなぜか全てがうまくいくように感じられた。

まるで何千年も前から、私という存在がこういう形で人と抱き合い、一つになることを望んでいたように、それが正しいことのように感じられたからだった。

 

次の日二人でお昼を食べに出掛けたときに、

高円寺の暖かな日差しに照らされた

彼の生まれながらにして茶色い瞳

まつ毛、巻き毛

その透明感を目にしたときに私はもう、心を飲み込まれてしまった。

 

そして、もう二度とこの素晴らしい光景を目の当たりにできないのだろう、という切なさに襲われ、私は涙してしまった。

 

これが恋というのか私には全くわからない。違うのかもしれない。

ずっとずっと昔から、これを探していた。

ただ、圧倒的な美しさの前で、私は何もできなくなってしまったのだった。

 

 

子供の頃みた心象が

未だこびりついて離れないの

 

 

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*1:私が大好きなベルトルッチの「シェルタリングスカイ」もそんな感じ。