午前3時。
実はこんな夜中まで平常心を持って起きていることは久しぶりだったりする。
いや、こんな時間まで起きている事がもはや平常ではない気はするんだけどね。
もともと睡眠サイクルがバグっている身としてはかなりまともな生活を送っていたんだよね最近は。
なにか考え事をしだすと眠れない性格である。
でも実際は何を考えているのか、正直自分でもわからなかったりする。
頭の端々から、何かよくわからないけれど、何か大切そうなことが浮かんできちゃって、いろいろ考えてしまう。
非常に不健康で生産性のない夜なんだけど、実はそういうのも好きだったりする。
そういう時は大抵、何かよくわからない邦ロックを流して、ダイニングの床に寝そべる。
そして、天井を見つめる。
天井のシミだとか、ホコリだとか、そういうのを見ていると落ち着く。
そうやって流れてくる邦ロックの反抗的な歌詞を口ずさんで見ると、気づけば1時間くらい経過しているものだった。
何か、天井を見つめる行為は思考をまっさらにする手段のように感じられる。
それは一種の瞑想のような感じ。
大学二年生の冬とか、とても寒い床に寝そべり、よく涙を流しながら午前3時の天井を見つめていた。
天井を見つめる事が趣味です、って数年前から言おうと思っているのに、よくわすれちゃうんだよなあ。
天井ってみんな気が付かないけれど、意外と見つめてみると面白いんだ。
特に古びたカフェとかシーシャ屋さんのトイレの天井。
大抵落書きがされているんだけど、みんな便器の上にわざわざ登って書いているんだろうか?
あとはこの前ジンギスカン屋さんに行った時の天井は、油汚れで茶色く変色していた。(これはシーシャ屋さんもだけど)
誰しもが天井に支えられて生きているのに、よくじっくり見ないと、いけないんだよなあっていつも思っている。
思考をまっさらにする手立ては他にもある。
今日は9時過ぎからずっと読書をしていたんだけど、(私は読書は隙間時間とかにできなくて、一度読むと没頭して読んでしまう。)1時間ほど音読をしてみた。
すると面白い事に、すべて音読する声が庵野秀明みたいなつまらない、抑揚なしの声になっちゃったんだよね。
朗読っていうより、音読という方が近いと思う。
「堀越二郎です」
のそのままの声。
村上春樹を読んでいたんだけど、まあ庵野秀明もそんな感じの文体の喋り方をする。
究極的に抑揚がないってことは、文字をそのまま言語化しているみたいで、つまりそれは人間的ではない。だけれど一番文学に忠実な読み方な気がする。
音読をしていると、黙読している時よりも余計なことを考えなくて済む。
資格のことだとか、卒論のことだとか、この前嗅いだお香の香りだとか、つまらない世間話だとか、そういったことは全く思い出せなくなる。
眠る事が苦手な私は、つまり瞑想も苦手なのだ。
黙想だとかそういうのも苦手だった、沈黙に耐えられなかった。
だから、天井を眺めながら呟いてみたり、文字を追いかけながら蓄音器の物真似をしてみたり、そういう事がとても落ち着く。
こういった風に脈絡もない文章をつらつらと書いてみる。
正直、人と話す事が好きな私は、つまりそういうことなのかもしれない。
人と話す事が落ち着くということは、こういうくだらない思考もクソもない「何か」をたらすために
私は外界に向かって音読し続けているのかもしれない。
どちらにせよ、私はとても平常である。
夜と、冬と、天井と一体になっている。