わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

忘れられないの

 

 

忘れることは生きること

なのかもしれない。

 

これは、半分諦めである。

本当は何も忘れたくないのだ。

 

思い出と忘却、そして永遠の存在についてずっとずっと考えている。

 

 

大学生活が終わる、そう言った実感がもう目の前まで来ている。

 

最近

「なんだかんだでたのしかったな」

と容易に片付けられるようになってきた。

 

大人になったのかもしれない、成長したのかもしれない

前に進む勇気を持ったのかもしれない。

 

でも、私は死なせたくない、忘れたくない。

私は、きらきらとした大切な感情を永遠にしたくてたまらなくて、辛いのだ。

なにか最高に光り輝くものを目の前にしたとき、この感動が未来永劫保管されることはないという切なさの呪いに取り憑かれている。

 

ああ、もう二度とこの瞬間が訪れないのか、

ということをひしひしと感じたとき、今の気持ちをそっと箱に閉じ込め、大切にいつまでも保管しておきたいと思ったのだ。

 

 

忘れてはならない、忘れたくない。

 

すごく寂しい、誰かの死とか、

閉店したカレー屋さんの味とか、買いたての新品の服の匂いとか、

もう終わってしまったものを取り戻せないことがとても寂しい。

 

永遠にしてしまいたい。

そうおもった、わたしはそれらを永遠にしたいと思ったのだ。

忘れてしまうのはとても悲しいから、辛いから。

 

そして、「永遠」はとても美しい。

永遠は、変わらない。

ずっとずうっと、過去で立って見守ってくれている。やすらぎと温もり。

 

そんな無い物ねだりのやさぐれの中で、寺山の言葉を目にした。

 

 

 

 

永遠、というのはつまり死なのかもしれない。
生命の、思考の、成長の死なのかもしれない。
 
永遠に触れていたいという願い、それはとても煌めいていて魅力的だ。
 
しかし、光り輝く命ではない。
太陽のような、熱い生へのエネルギーとは違うのだ。
 
忘れたくない、しかし、故意に忘れているわけではない。
忘れながらも、前を見据える。
別に何も私は非情で、ひとでなしなんてそんなひどい奴ではないんだって。
 
 

「人は思い出を忘れる事で生きていける。」

 

これはエヴァ破の、冒頭での碇ゲンドウの言葉。

思い出っていうか、その時の感情とかそういうのって、良い意味でも悪い意味でも風化してしまう。

 

思い出の原則が修正可能であるのならば、過去も現在も、未来の自分なんて全く信用できないのである。

 

別れた彼氏とか、仲が悪くなっちゃった友達とか、

旅行とか、美味しいコーヒーの味とか、好きな人の香りとか

全部忘れてしまう。

そして未来の自分に「思い出」として歪んだまま再生されてしまう。

 

でも人は、そうしていかないと前に進めないのだ。

過去に執着しているままでは、未来に道は広がっていかないから。

 

 

 
だから、忘れるというのはつまり生きることなのかもしれないと、そう考えた。

 

だが、決して忘れてはならないこともある。

ユイはそのかけがえのないものを教えてくれた。

私は、その確認をするためにここに来ている 

ゲンドウのセリフの続き。

 

忘れることは避けられない。

それは生きていく上で、どうしようもないことなのだ。

でもどうしても忘れたくないことがあるなら、忘れることの切なさを受け止めながら生きていくしかない。

 

ならば、できるだけ忠実に、写実的に、何かを記録していく

そしてその時の感情だとか、体温だとか、空の色とか大気の暖かさを思い出せるようにしておきたいと思ったのだ。

 

こうやってブログを書いているのも、そのためなのかもしれない。

いつか同じばかをしてしまったり、悲しみに打ちひしがれたときの道標。

忘れることが生きることなら、覚えていることも生きることの助けになると私は信じている。

 

 

夢みたいなこの日を

千年に一回ぐらいの日を

永遠にしたいこの日々を

そう今も思ってるよ

 

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