わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

美しい

 

純粋なクソがいい

おしゃれなクソにジェラシー

クソに魂込めた

リボンを結んでみた 同じか?

みんな同じか?

 

メイク、化粧と普遍的な美について

書いておこうと思う。

 

先日友達に化粧をしてあげ、そして化粧をしてもらう機会があった。

純粋に自分がメイクが好き、コスメが好きだからこそ誰かの顔をパレットにしてみたいという思いがあった。

 

化粧、顔面を飾り付ける。

それを極めるまで、かなり長い道のりがあった。

高校三年生の春休みに見た美容系ユーチューバーの動画を見て物真似をしてみた。

アイラインはガタガタだったし自分が似合う色はもちろん、好きな色すらわからなかった。

 

化粧を初めて4年。

整形を通してさらに自分の顔の作りだとか、特色というものを理解できるようになった。

自分の顔だけではなく、他人の顔を分析して飾ってみたいと思った。

 

自分に対する顔の分析と、メイクの特徴を書き出しておきたいと思う。

もしこれ違うな?とかこう思うな?ということがあったらぜひ指摘してもらいたい。

 

【顔分析】

・目の形:左右で異なる、右目の方がアーモンドアイ寄り

 パッチリ二重だが、皮厚め末広型なので、笑うと二重が消滅する

・肌の色:イエローベース。地毛が真っ黒なので多分イエベ秋。

 昔はくすんでたけど日焼けを避けることでかなり透明感が出てきた。

・唇:厚い。ボーッとしてると下唇が出てしまうため、不満な印象を与えがち。

・眉毛、薄いし無い。

・鼻の形:整形済み

 尾翼部が大きめなのが少し気になる(けれど大きい鼻も悪くはない)

・顔の形:典型的な小顔タイプ。人中の長さもちょうどいい。

 

【メイクのこだわり】

・艶肌

・眉毛は平行寄りで角度つける

・顔面の毛を全てピンク・ブラウンに染める

・ライン系も全てピンク・ブラウン。ハネもせずタレ目にもせず平行

・二重幅と涙袋の拡張

 マットシャドウで涙袋の影を描く

・洋服と顔面の色系統を合わせる

 

【理想と現実の相違】

・理想:可愛い顔の印象+色素薄めのアンニュイ感

・コンプレックス:歯並び、不満顔、下唇と唇の発色、目の左右差

 →やりたいこと…インビザライン、眉下切開、唇のアートメイク

 

 

ただの自己分析。

なんだけど、メイクをしていると、というか他人にメイクをしていると

かなりの固定観念と美的感覚に囚われていることに気がついた。

 

所謂私の好みの血色感メイクを施すと、友人の顔はありえないほど温和になった。

優しそうなお姉さんといった感じになった。

私好みの感じになった。

 

メイクを施した友人の好みはグレー系メイクだった。

マスカラは黒だし、眉はグレーだし、メイクにかける時間も比較的短い。

私は絶対に使わない単色ラメシャドウをすごく上手く使う。

黒のアイラインの跳ね上げは人を殺せそうなくらい尖っている。

私はよく個性的なファッションや趣味を活かすべきと言われるんだけど、それを助長することができそうな顔。

私の顔は、強くなった。マジで。

 

びっくりしてしまった。

メイクで人は変わるというが、結局は技量&美的感覚に左右されるのだ。

「所謂メイクをする人のセンスが問われる」、ということなのだ。

 

しかし、それは裏返しで

「所謂美的感覚は人のセンスそのもの」ということなのだ。

 

私は友人にしてあげた血色メイクがすごく可愛いと思ったのだが、

友人はやはり強い顔が好きだといっていた。

アイラインも強いのがいいし、結局は黒いマスカラを使うといっていた。

 

私もやはり、強いメイクはそれはそれで好きだけれど落ち着かなかった。

ゴリゴリに鼻をシャドウで削って行きたいと思った。

 

難しい、

何かを「美しくしよう」という気持ちが違えば

何かを「美しい」と思う気持ちも違うのだ。

 

圧倒的な美的感覚の違い。

これはどちらが正しい、という話ではなく、それぞれの正義が確かに存在しているということだった。

結局は、周りなんて関係なくて、自分が良ければなんでも良いからだ。

 

美だけではない、きっといろんなことに言えるのだろう。

人はそれらの妥協点を探し合いながら共存している。

そう考えてみれば、恋愛というものはまるで奇跡みたいだ。

 

 

 

さて、ここまでは発見なのだが、私には一つの疑問が再浮上した。

「普遍的な美とはなにか」

 

ka7788.hatenablog.com

それらは何かを、人類を超越した美しいものに感じられる。

圧倒的な美しさの前では、人は屈服する意外になくて、ただただ無力に感じられる。

 

私はこのブログの中で二つの答えを導き出した。

・シンプルさの中に、隠された情熱にこそ、美が存在する

・圧倒的な生命の恐ろしさの中にこそ、美が存在する。

 

メイクを通して、美的感覚と正義には個人差が存在することは理解できた。

しかし、なぜ社会の中には普遍的な美というものが存在するのだろうか?

 

例えば、橋本環奈や新垣結衣を例に出そう。

まさか、とは思うが橋本環奈のことを「ブサイク」はもちろん「かわいくない」という人は存在しないだろう。

人には人の正義感がある、ということを多めにみてもだ。

「タイプではない」という人も、少ないと思う。圧倒的に可愛い。

そういう人のことをひがみではないか?と疑いたくなるくらいだ。 

 

これが、有村架純や土屋太鳳になると成り立たないのが不思議なのだ。

不思議なのだ。

美しさに共通しているものが何かはわからない。集団心理かもしれない。

 

 

考えてみると、人々には正義感があり、正しさというものがあるのにも関わらず

社会に共有される「正しさ」とはなんなのだろうか、ある種確立しているものがあるような気がする。

 

ただ、想像してみて欲しい。

身長170センチメートルの橋本環奈を。

身長150センチメートルのティルダ・スウィントンを。

 

何かが違う…。

橋本環奈が内包する「かわいらしさ」というものが圧倒的に失われる。

ティルダ・スウィントンが内包する「かっこよさ」というものが永遠に失われる。

 

そう考えれば、社会に共有される、美しい人々は奇跡のバランスで存在しているのかもしれない…。

「似合う」「正しさ」のバランスが完璧に取れた奇跡

それこそ、それらが混ざり合っている状況こそ尊い、そう感じられる。

橋本環奈になりたい。

 

 

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