わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

忘れられないの

 

 

忘れることは生きること

なのかもしれない。

 

これは、半分諦めである。

本当は何も忘れたくないのだ。

 

思い出と忘却、そして永遠の存在についてずっとずっと考えている。

 

 

大学生活が終わる、そう言った実感がもう目の前まで来ている。

 

最近

「なんだかんだでたのしかったな」

と容易に片付けられるようになってきた。

 

大人になったのかもしれない、成長したのかもしれない

前に進む勇気を持ったのかもしれない。

 

でも、私は死なせたくない、忘れたくない。

私は、きらきらとした大切な感情を永遠にしたくてたまらなくて、辛いのだ。

なにか最高に光り輝くものを目の前にしたとき、この感動が未来永劫保管されることはないという切なさの呪いに取り憑かれている。

 

ああ、もう二度とこの瞬間が訪れないのか、

ということをひしひしと感じたとき、今の気持ちをそっと箱に閉じ込め、大切にいつまでも保管しておきたいと思ったのだ。

 

 

忘れてはならない、忘れたくない。

 

すごく寂しい、誰かの死とか、

閉店したカレー屋さんの味とか、買いたての新品の服の匂いとか、

もう終わってしまったものを取り戻せないことがとても寂しい。

 

永遠にしてしまいたい。

そうおもった、わたしはそれらを永遠にしたいと思ったのだ。

忘れてしまうのはとても悲しいから、辛いから。

 

そして、「永遠」はとても美しい。

永遠は、変わらない。

ずっとずうっと、過去で立って見守ってくれている。やすらぎと温もり。

 

そんな無い物ねだりのやさぐれの中で、寺山の言葉を目にした。

 

 

 

 

永遠、というのはつまり死なのかもしれない。
生命の、思考の、成長の死なのかもしれない。
 
永遠に触れていたいという願い、それはとても煌めいていて魅力的だ。
 
しかし、光り輝く命ではない。
太陽のような、熱い生へのエネルギーとは違うのだ。
 
忘れたくない、しかし、故意に忘れているわけではない。
忘れながらも、前を見据える。
別に何も私は非情で、ひとでなしなんてそんなひどい奴ではないんだって。
 
 

「人は思い出を忘れる事で生きていける。」

 

これはエヴァ破の、冒頭での碇ゲンドウの言葉。

思い出っていうか、その時の感情とかそういうのって、良い意味でも悪い意味でも風化してしまう。

 

思い出の原則が修正可能であるのならば、過去も現在も、未来の自分なんて全く信用できないのである。

 

別れた彼氏とか、仲が悪くなっちゃった友達とか、

旅行とか、美味しいコーヒーの味とか、好きな人の香りとか

全部忘れてしまう。

そして未来の自分に「思い出」として歪んだまま再生されてしまう。

 

でも人は、そうしていかないと前に進めないのだ。

過去に執着しているままでは、未来に道は広がっていかないから。

 

 

 
だから、忘れるというのはつまり生きることなのかもしれないと、そう考えた。

 

だが、決して忘れてはならないこともある。

ユイはそのかけがえのないものを教えてくれた。

私は、その確認をするためにここに来ている 

ゲンドウのセリフの続き。

 

忘れることは避けられない。

それは生きていく上で、どうしようもないことなのだ。

でもどうしても忘れたくないことがあるなら、忘れることの切なさを受け止めながら生きていくしかない。

 

ならば、できるだけ忠実に、写実的に、何かを記録していく

そしてその時の感情だとか、体温だとか、空の色とか大気の暖かさを思い出せるようにしておきたいと思ったのだ。

 

こうやってブログを書いているのも、そのためなのかもしれない。

いつか同じばかをしてしまったり、悲しみに打ちひしがれたときの道標。

忘れることが生きることなら、覚えていることも生きることの助けになると私は信じている。

 

 

夢みたいなこの日を

千年に一回ぐらいの日を

永遠にしたいこの日々を

そう今も思ってるよ

 

open.spotify.com

 

GIRL'S GIRL

 

整形前夜 ノーマ・ジーンが泣きながら 兎の尻に挿すアスピリン

 

私はこの唄がとても好きだ。

整形前夜、私は全てが苦しくて不安になって風呂で溺れかけた。

誰かにそっと抱きしめてもらいたかった。

 

 

整形のことについて書いておこうと思う。

 

近年は美容整形の値段や、ハードルが下がったことで手術に踏み込む人が増えていると思う。

私もその一人だ。

 

コロナ禍で海外旅行に行けず、貯めに貯めた貯金は泣いていた。

こんなにも汗水垂らして、大学にもちゃんと行かずにバイトばかりしていたのに、

ただただ金だけが鎮座していた。

 

お金とは使えば消える一方で稼げばいくらでも稼げるものである。

お金自体はそこら辺に転がっている、大切ではあるがそれ自体は何の価値もない。

本質は、命にある、だからこそ大切だと思う。

いわゆる私たちは、命を燃やしながら、限りある人生を消耗しながら

お金を稼いでいる。

時給換算すれば、私たちの命は1時間あたりで取引される。

 

命を燃やして、お金を得て、そしてそのお金でまた生きながらえる。

そういうサイクルで人は生きていく。

でも、生きながらえるのに必要以上のお金を稼いでしまい、ただただ消耗した。

そして自粛生活と閉鎖された日々が始まった。

 

それでは、これから生きながらえるために、健康に生きていくための

自分なりの投資とは何なのか。

考えた結果が美容整形だった。

 

 

施術箇所は鼻だ。

鼻尖形成と、軟骨移植と、鷲鼻修正とプロテーゼを挿入した。

 

鼻の整形は周りでもやっている人が少ないのではないだろうか。

大学生がよくやる埋没とかヒアルロン酸なんかはもう格安でできるし、症例も多いし、何より修正可能だからプチ整形の範囲内である。

 

 

ダウンタイムも長いし、料金もかなりする鼻生計に踏み切った理由はただ一つ。

自分の鼻の形がずっとずっと、もう生まれついた時から気に入らなかったのだ。

自分というよりも、親がずっと気にしていた。

小さい頃に御茶ノ水の大学病院で検査を受けてみたりだとか、

鼻が高くなるマッサージをしろだとか、いろいろ言われてきた。

 

いろいろ言われると、コンプレックスになる。

自分で思っていなくても、考えてしまう。

小学生の時は好きだった男の子に鼻が割れているのがおかしいと笑われた。

中学では、夏以外はほとんどマスクをつけていた。

 

大学に入って、化粧を研究して、コンプレックスを何とか解消しようと思った。

けれど、それにも限界がある。

やはり、身体的な特徴というのを、メイクでごまかすには限界があるのだ。

そのうち気にしすぎて、口を開けて笑うことができなくなった。

人と話すときも口で顔を覆うようになった。

自分の写真を見ていると眠れなくなった。

 

 

今まで自分の顔に自信が持てたことがなかった、それがとても辛かった。

自分が望む「かわいい」とのギャップを埋めることができないストレス。

永遠に解消できないストレス。

努力と苦難の末に、決断した結果である。

 

 

本日で、整形手術を受けて一週間が経過した。

正直、本当にやって良かったと思っている。

 

手術当日から二日目まではとにかく腫れてしまって、本当にこれから可愛くなるのか不安でたまらなかった。

1日鏡で自分の顔を見て終わった日もあった。

四日目あたりから落ち着いてきて、抜糸をした今腫れはほとんど引いている。

 

何よりもうれしいのは自分の顔に満足をしているということである。

自己肯定感が低い上に、顔も大して可愛くない。

ていうか、顔がかわいいやつに自己肯定感が低い奴がいるのかはわからんが。

自分の顔を堂々とSNSにあげる女の子には、絶対に私の気持ちなんてわからない。

自分の顔を見て、不快にならないということがどれだけ、泣けてしまうほど感動的であるか。

 

私の顔は変わったのだが、他人から見たらそうでもないのかもしれない。

友達からはあまり違いがわからないと言われたし、そもそも整形してもしなくてもあなたのことが好きだと言ってくれた。

とてもうれしいのだが、結局は自己満足なのである。

 

 

今日親に「どうせ就職するのにこれ以上かわいくなっても意味がない」と言われた。

今日弟に「男にモテてどうするんだ」と言われた。

 

私は逆上した。本当に怒ってしまったのだ。

他人から評価される為、他人に不快な思いをさせないために可愛くなっているわけではない。

 

化粧をがんばったり、お洋服を買ってみたり、髪の毛を染めてみたり

お香を炊いてみたり、ネイルをしてみたり

 

そう言ったことは全て自分のためにやっているのである。

だから、もうこれ以上私を否定しないでくれと願った。

私の求める「かわいい」は絶対誰にも剥がせないし、剥がさせない。

 

 

私は私が認めた私を認めさせたい 何が悪い

 

open.spotify.com

 

 

【DT1日目】 ・鼻根が鬼腫れる、骨いじるとやっぱ辛い ・腫れすぎて目頭に線が入る ・軟骨を採取した右耳が動くため、痛くてお粥しか食べれない ・喋ってたらブサイクすぎてお母さんに笑われる ・新幹線に似てるはさすがに褒めてる

 

【DT2日目】 ・おでこの腫れのピーク過ぎる ・否めないニュウドウカジカ感 ・さすがに風呂入りたい ・抗生物質のおかげでニキビ消滅 ワイ「私キレイ?」 おトット「ポマード!ポマード!ポマード!」

【DT3日目】 ・起床!突然の吐き気、油断してた ・ギプスを外す。鼻先高くて感動した死ぬ ・二重幅復活。涙袋戻らず。そろそろめ♡ん♡た♡るDA☆ZO☆ ・先生に整形したって言ったらめっちゃ驚かれる、スマンな

 

【DT4日目】 ・初めてメイクする!かわいい ・眼窩辺りの黄色味がえぐい ・ニキビ復活祭、お呼びでない

 

【DT5日目】 ・鼻根の浮腫が取れてスッキリする ・まぢ黄色い ・プロテで引き寄せられて多分左目の目の形変わった ・ニキビ潰れる

 

【DT6日目】 ・手術ぶりにお出かけ!世界は美しい! ・鼻先の痺れが少しづつ解消。プロテ入ってるなりに、鼻先がスッキリしてきた。嬉しい。 ・アザが気になる。黄味は少しづつ引いてるけど、青アザはもう少しかかりそう…スポッツカバーでも消えない

 

【DT7日目】 ・ついに抜糸!鼻くそ取れた最高 ・プロテが出てきた事で、目のホリが強調された。 ・アザもクマっぽくなってきたので消えるまであと少し
 
 

 

マイ・ロスト・シティー

 

カーステから流れるのはローランド・カークだった

言葉は生い茂りつつも意味を失っていく

 

カーステから流れるのは、ゆらゆら帝国だとか、高城晶平とかなんですけどね。

 

深夜一時、築地、銀座、有楽町、新宿、きらきらひかっていた街並みも夜の帳が下りれば皆黙る。

その中を時速80キロメートルの弾丸となり、通過していく時、とても私は輝いていた!

 

「AH!」って叫びながら!祝田橋!

 

わたしがえらぶさいきょうの邦ロックのプレイリストができたよ。

どこまででも車を飛ばそう。

車があればどこにだって行ける。

ググって出てくるとこならどこへだって行けるし、食べログ評価が低い店でも自分の足でいけばちょーおいしい。

 

だから、どこへでもいきたい、どこへでもいこうよ。

 

 

齢22。

メンヘラ廃業宣言をしたのはもう半年以上前。

散々「幸福論」だとか「丁寧な暮らし笑」を語ってきたこの備忘録

ぜんぶぜんぶうそでーす、ぜんぶぜんぶうそだっていうことを告白します。

 

もう散々大人になったって!

そう思ってました私も!

違いました!

ただの躁鬱ボーダー多動野郎でした。

 

人との交わりを恐れて、人に触れることで傷つくことを恐れて、そうやって人に媚びてるだけだったんですね。

 

この一年くらい、ずっとずっと仲のいい女友達とだけ話して、遊んで、そうやって大人になった気でいたけれど、私の境界に触れる人がいないってだけだったんだよね。

 

何も変わってなかったです。

 

私を傷つける奴は全員殺してやりたいもん。

私が幸せになれない世界の方が狂っている。

仕返ししてる時が一番楽しい。

 

 

 

ダンスをとめるな!ダンスをとめるな!

ダンスをとめるな!ダンスをとめるな!

 

 

open.spotify.com

 

完全な夜の作り方

 

 

午前3時。

実はこんな夜中まで平常心を持って起きていることは久しぶりだったりする。

 

いや、こんな時間まで起きている事がもはや平常ではない気はするんだけどね。

もともと睡眠サイクルがバグっている身としてはかなりまともな生活を送っていたんだよね最近は。

 

なにか考え事をしだすと眠れない性格である。

でも実際は何を考えているのか、正直自分でもわからなかったりする。

 

頭の端々から、何かよくわからないけれど、何か大切そうなことが浮かんできちゃって、いろいろ考えてしまう。

 

非常に不健康で生産性のない夜なんだけど、実はそういうのも好きだったりする。

 

そういう時は大抵、何かよくわからない邦ロックを流して、ダイニングの床に寝そべる。

そして、天井を見つめる。

 

天井のシミだとか、ホコリだとか、そういうのを見ていると落ち着く。

そうやって流れてくる邦ロックの反抗的な歌詞を口ずさんで見ると、気づけば1時間くらい経過しているものだった。

 

何か、天井を見つめる行為は思考をまっさらにする手段のように感じられる。

それは一種の瞑想のような感じ。

大学二年生の冬とか、とても寒い床に寝そべり、よく涙を流しながら午前3時の天井を見つめていた。

 

天井を見つめる事が趣味です、って数年前から言おうと思っているのに、よくわすれちゃうんだよなあ。

 

天井ってみんな気が付かないけれど、意外と見つめてみると面白いんだ。

特に古びたカフェとかシーシャ屋さんのトイレの天井。

大抵落書きがされているんだけど、みんな便器の上にわざわざ登って書いているんだろうか?

 

あとはこの前ジンギスカン屋さんに行った時の天井は、油汚れで茶色く変色していた。(これはシーシャ屋さんもだけど)

誰しもが天井に支えられて生きているのに、よくじっくり見ないと、いけないんだよなあっていつも思っている。

 

 

思考をまっさらにする手立ては他にもある。

今日は9時過ぎからずっと読書をしていたんだけど、(私は読書は隙間時間とかにできなくて、一度読むと没頭して読んでしまう。)1時間ほど音読をしてみた。

 

すると面白い事に、すべて音読する声が庵野秀明みたいなつまらない、抑揚なしの声になっちゃったんだよね。

朗読っていうより、音読という方が近いと思う。

堀越二郎です」

のそのままの声。

 

村上春樹を読んでいたんだけど、まあ庵野秀明もそんな感じの文体の喋り方をする。

究極的に抑揚がないってことは、文字をそのまま言語化しているみたいで、つまりそれは人間的ではない。だけれど一番文学に忠実な読み方な気がする。

 

音読をしていると、黙読している時よりも余計なことを考えなくて済む。

資格のことだとか、卒論のことだとか、この前嗅いだお香の香りだとか、つまらない世間話だとか、そういったことは全く思い出せなくなる。

 

眠る事が苦手な私は、つまり瞑想も苦手なのだ。

黙想だとかそういうのも苦手だった、沈黙に耐えられなかった。

 

だから、天井を眺めながら呟いてみたり、文字を追いかけながら蓄音器の物真似をしてみたり、そういう事がとても落ち着く。

こういった風に脈絡もない文章をつらつらと書いてみる。

 

正直、人と話す事が好きな私は、つまりそういうことなのかもしれない。

 

人と話す事が落ち着くということは、こういうくだらない思考もクソもない「何か」をたらすために

私は外界に向かって音読し続けているのかもしれない。

 

どちらにせよ、私はとても平常である。

夜と、冬と、天井と一体になっている。

 

open.spotify.com

美しい

 

昔、遠い未来の愛すべき人に向かって、愛していると叫んだことがある。

誰か愛しい人に出会ったときに、なぜもっと昔から出会えなかったのかと後悔したからであった。

 

待ち焦がれてる人よ

遠く離れた旅人よ

ちらばる恋人たちよ

寒さにふるえる君も

 

ふと、普遍的な美しいものを探す為に生きているのだと思った。

 

普遍的ってなんだろう、私は普遍的という言葉がとても好きでよく使うんだけど、それは遍くこの世に共有され、その例外がないものを言う。

 

人というのは付かず離れず、ばらばらだから、世界に共通した感覚というのがあるのか、疑問ではある。

だからこそ戦争は無くならないし、人は傷つくし

だからこそ違うものが生まれて、新たな文化が紡がれていく。

 

普遍的なものがある、というのはある意味、一つに統合しようとする暴力性を持っているように感じられる。

 

しかし、普遍的な美とは、なんだろうか。

 

私にとっての美の象徴は、「目」なのだが、極端過ぎるかもしれない。私は好きで好きでたまらないんだけど、広く知れ渡る美しさというよりもフェティシズムに近い。

 

遍く、人類が、なんの先入観も文化観も持たずに、ただただ恍惚する何か、そんなもの。

 

ミケランジェロの彫刻が

オリュンポスの神殿が

バッハの旋律が

リルケの詩が

プルーストの物語が

 

それらは何かを、人類を超越した美しいものに感じられる。

圧倒的な美しさの前では、人は屈服する意外になくて、ただただ無力に感じられる。

 

普遍的な美とは、究極的に言えばシンプルさと近いのだという。

コルビュジェの建築であったり、無印の雑貨などを想像して欲しい。

あれらは、人類にとって必要な要素を保ちつつも、究極的にシンプルに、作りあげたものだ。

シンプルというものは、意味がないように見えて、意味しか存在しないのだが、それらが世界に溶け込みすぎて一見なんでもないように見える。

 

例えばハイブランドのマルジェラの話をしてみようと思う。

マルジェラには、洋服のタグをつけるときに裏側から見える四角の縫い目が施されている。

私は最初マルジェラの洋服を見たときに「なんだこれ」と思ったんだけれど、このタグにはシンプルさと匿名性という意味が込められている。

 

この匿名性とは、「ブランド名やロゴを排したときに現れる、真に美しい、そして良質なものとは何か」ということだった。

つまり、ブランドや名前というのは偶像で、ラベリングである。

ブランド創設者の意図を理解しなければ全く身につけている意味がないと昔書いた。

 

ka7788.hatenablog.com

 

シンプルさの中に、隠された情熱にこそ、美が存在する。

 

 

少し前に四国に行った時の話をしようと思う。

香川県の直島に存在する「地中美術館」に行ったときのことだ。

直島全体は、アートサイトになっていて、多くの作品や建築があるのだが、安藤忠雄の建築が見どころで、地中美術館もその一つだ。

 

わたしは、美術館というか、なにか建物に入って初めて「恐ろしい」と感じた。

なにか、遠い昔の神か、遠い未来の神が作り出した異形の存在のように感じられたからだった。

 

地中美術館というのは、その名の通り、地中に存在している。

f:id:ka7788:20210110185355j:plain

 

これらの三角であったり、長方形の「穴」こそ美術館の天井に値するのだが、その建築方法がすごい。

 

まず直島に山が存在していて、その山を一度切り開く。

その中に筒状のコンクリートの建物(壁というべきか)を作る。その中に美術品を配置する部屋を作る。

そして、建物が完成した後、又もう一度山を再建して美術館を取り囲んでいるのだ。

 

完全に地中に埋まった存在。

私は足を踏み入れたときに、その大地の温もりを感じた。

その一方で、コンクリートの冷たさを感じ、空に広がる大きな曇天に恐れ慄いた。

 

そのとき、私は完全に大地に包み込まれていることを理解した。地球というのは暖かく、人間が抗おうとしてもどうにもならない。こうやって人類の英知である建築技術を用いて、なんとか建物で私は守られているのだと、そう感じた*1

そして、涙が出るほど美しいと感じたのだった。

 

圧倒的な生命の恐ろしさの中にこそ、美が存在する。

 

 

これが私の美学。

普遍的な日が存在するかはわからないが、私が微睡ながら、心底恍惚してしまうもの。

 

 

そして、私の美学を象徴づける大きな出来事が起こった。

それはよくある話だ。

行きずりの男と話をし、飯を食い、そしてセックスをした。

私は長らく生まれてから性的なものに対してひどく抵抗があって、それらをおおっ広げにすることは馬鹿で恥ずかしくて、知的な行為ではないと考えていたからだ。

 

しかし、その日はなぜか全てがうまくいくように感じられた。

まるで何千年も前から、私という存在がこういう形で人と抱き合い、一つになることを望んでいたように、それが正しいことのように感じられたからだった。

 

次の日二人でお昼を食べに出掛けたときに、

高円寺の暖かな日差しに照らされた

彼の生まれながらにして茶色い瞳

まつ毛、巻き毛

その透明感を目にしたときに私はもう、心を飲み込まれてしまった。

 

そして、もう二度とこの素晴らしい光景を目の当たりにできないのだろう、という切なさに襲われ、私は涙してしまった。

 

これが恋というのか私には全くわからない。違うのかもしれない。

ずっとずっと昔から、これを探していた。

ただ、圧倒的な美しさの前で、私は何もできなくなってしまったのだった。

 

 

子供の頃みた心象が

未だこびりついて離れないの

 

 

open.spotify.com

 

*1:私が大好きなベルトルッチの「シェルタリングスカイ」もそんな感じ。

Common People

 
 
I want to live like common people,
I want to do whatever common people do,
I want to sleep with common people,
I want to sleep with common people,
Like you.
 
普通の人みたいに暮らしたい
普通の人みたいに何かがしてみたいんだよね
普通の人に抱かれたい
詰まるところ、普通の人と寝たいってわけよ、貴方みたいな。

 

 

年の瀬ですね。

ガキ使が始まるまで今年の振り返りをしてみる、18時ごろ。

 

タイピングは遅い方じゃないんだけど、

いつもいろいろ考えながら書いているので1時間くらいかかるけど大丈夫かな。

18時半からなんだけどなあ。多分終わりませんね〜

 

 

今年の一年間何してたかなって考えてみたけど、すごく変化が多い年だった。

別に特別な何処かに出かけたり、例えば海外旅行であったりだとか

新しい友達ができてすごく仲を深めたとかそういうのじゃない。

何か新しい事はわりと私は怖い方なので。

 

どちらかというと、何度も此処で触れてきたけど

内なる世界へと沈み込んでいき、自分らしさに邂逅した気がする。

それは「新しい自分」とかいう胡散臭いものじゃなくて、当たり前の自分らしさを再確認することのような気がする。

 

 

6月までにかけて

就職活動をスタートさせるという事で、燻っていた年明けごろ。

まあ去年までの自分と同じでくだらないこと、どうにもならないことで延々に語り散らしていた。

どこへでも行けるのに、行かなかった。

等身大の幸せを愛せないのに、所謂妥当な道を選んできた。

 

今は、今だ、今を生きなきゃいけないのに

いっそ水星にでも旅に出たいなと、ぼんやり中学の頃から考えている。

 

ka7788.hatenablog.com

 

とにかく何者かになりたかった。

これは自分でもよく理解していることなのだが、今年の中盤に入るまで生きていることがとにかく苦痛でしかなかった。

何か特別なものになって、特別生きる理由を得て、誰かに讃えられながら息をしていたい。

そんな謎の選民思想に取り憑かれた数年間だった。

完璧な人生でなければ意味がないし、完璧な人生でなければ悲しみなんて辛いだけ。

 

でも何かになるのはとても怖いことだった。

だから妥当な人生を選んでいた。

いっそ一思いに死んでしまった方が楽だとずっと本気で考えていたんだよ。

 

だからこそ、ある日突然ベリーショートに髪を揃えてみたり

あえて風呂に一週間入らなかったり

遠く離れたフランスの空に憧れていたのだ。

 

この辺の雑記は正直全部書いていることが一緒なんだよね

こんなつまらないことで延々と悩めるなんてかなり高級だけど

それだけ人生を燃やして悩んでいたのも事実なんだよね。

 

 

 

就活終了後あたり

ふとした瞬間、人生の考え方が変わることってあるんだって気づいたんだよね。

人生が、人が、何か突然変わることなんてないんだけど、この頃の出来事が私の人生観を大きく変えた。

一つ一つ話すとすごく長くなるんだけど

 

例えば

・コロナでどこもいけなくなった

・就活40社落ちた

・母の暴走再びとDV事件

・ゼミの先生からのハラスメント

・Tinder男に騙された

・既婚者に付き纏われた

 

とかね。

どれもこれもまるで他人から何かされた被害者みたいに書き連ねてるけど

今考えれば全部自分で招いたことなんだ。

例えば就活なんて一番コロナの影響を受けたけど、コロナがなくてもうまくいかなかったと思う。

人生に絶望していた私は働く理由も理想もなかったからだ。

40社落ちてやっと「生きねば」と察したから、良かったものである。

 

そして、究極の人権侵害にあった事で、自分を大切にする事や自分の周りの人を大切にすることを実感した。

幸せというステレオタイプに縛られるよりも、自分なりの幸せのあり方を見つけるほうがよっぽどいい。

 

幸せになる事はとても難しい。

人生はとても長い。

人生には取り返しのつかないことがたくさんある。

何が正解かなんて、私には到底わからない。

 

これまで「正解」ばかり追い求めてきた事で、世間との相違に苦しんできた。

模範解答と照らし合わせて、人生を自己採点する作業は、人を苦しめるから。

それを、「辛い」と嘆くのは、とても惨めなことだから。

 

でも、新しく私の人生が切り開けていくのを感じている。

絶対に幸せになってやる

ka7788.hatenablog.com

 

これだけ辛いことがあって、もう散々だ、辛酸にもほどがあると思ってたんだけど

ありがたいことにコロナによる自宅軟禁は良い副作用をもたらしてくれた。

 

例えば 

村上春樹を読んだこと

・ワイスピを全部見たこと 

・幸福論について考えたこと

三浦春馬の死に想いを寄せたこと

・毎日規則正しい生活をしたこと

・今いる友達に感謝をしたこと

 

新しい事は何もない。

ただ転がっている日常を見つめ直しただけだと思う。

 

特に友達に関しては大きな価値観の転換が起こった。

私は今まで友達なんかほとんどいないと思っていた。

中学時代の時に友達が居なすぎて、高校では自分の趣味を隠して生きて

ステレオタイプに縛られすぎた人生を送ってきたからだ。

 

でも友達が居ないなんてそんなことなくて、たくさん周りにいることを実感したのだ。

人は必ず孤独だし、一つにはなれないけれど

それでも会えない世相の中で会おうとしてくれる人たちをいつまでも愛していきたいと思った。

 

 

来年に向けて

死ぬほど一年あっという間だったけど、これだけ思い出すことがある。

かなり成長したんだなあと思っている。

 

価値観の転換が起きてからは、いろんな映画や本を読んで、そこからいろいろ考えてみたり

人生の生き方がとても楽になったり、癇癪を起こしたりすることも少なくなったと思う。

 

最近は資格の勉強をしたり卒論を書いたりしているけど、来年はどうして行こう。

就職をすることもそうだけど、いろいろあって人生初の体験をする予定なので

たくさんそれについても考えを残して行こうと思う。

 

私はもちろん特別な人ではない。

普通の人だ

少なくとも普通の人で普通の人生を送っていて、とりわけ特筆することなんてない。

お金持ちではなければ貧乏人でもない。

特別かわいくもなければ特別ブサイクなわけでもない。

何も尊大で偉大なことなんてないし、そんな誰かも私には存在しない。

 

 

まあそれって、普通のことなんだけど、そんな普通のことに気がついてよかったな。

 

もう私の口から、16歳の時に考えていたようなどうにもならないつまらないどうでもいいこと

どうでもいいけど、どうでもよくない事が口からあんまり出なくなっちゃうのは悲しいな。

10代に戻りたい、ある種の切なさを含んだ願望っていうのが最近わかり始めている。

 

私はそんな切ない思いも、思い出もすぐ忘れてしまうから、

たまにこうして振り返ってみたり、書いてみたりみてみたりすることが必要だ。

だからこれからもそうしようと思う。

 

 

 

open.spotify.com

 

 

サンタクロースにお願い

 

今年も12月が終わろうとしている。

 

ハロウィンが終わったら、世間は一気にクリスマスモードで

クリスマスはケーキを食べたり、イルミネーションをみたり

すごく西洋的なことをするのに、25日が終わった瞬間お正月モードになるのはなんだか面白い。

 

この年末のバタバタ感が実は好きだ。

人っていうのは何か考えてたりしないと、あっという間に過ぎ去っていく時間の流れに流されちゃう。

だから、バタバタしているとすごく生きているという感じがするのだ。

 

それこそ、クリスマスなんて行事そのもの自体はなんでもない。

そもそもイエスキリストの生誕を祝う日(誕生日ではない)であって、極東の日本が一周回って大切な人と過ごす日として捉えているのはなんだか面白い。

 

サンタクロースの伝説もキリスト教文化に裏打ちされたものであるけど、真っ赤なお鼻のトナカイさんをつれた赤いオヤジというステレオタイプも国によりけりらしい。

 

どこかの外資系企業がビジネス戦略によって植え付けたのに違いないと思っているんだけど、やっぱりこの寒いけれどポカポカしている景気の良い雰囲気は嫌いになれない。

 

今年はめちゃめちゃに24日までバイトしてた。非常に疲れたけど、いろんなお客さんとお話しして、楽しかったな。

夜は家でまったりホットワインを飲んで、25日にはクリスマスマーケットに行った。

混雑が怖かったので昼飲みで済ませた、その為夜には家に帰っていた。

 

そうしてその後、年末番組を見たりしていたんだけど、今年のクリスマスは今までで一番まったりしていたんじゃないかなあと思う。

去年はバイト先の人と朝までスターウォーズについて語ってたし、その前の年は滝に打たれてた。

三年前は彼氏と過ごしたけど、気づけばなんだかんだで充実した二日間を謳歌していたのだ。

 

私は天邪鬼なので、一時期クリスマスを憎んだりもしたけど、なんだかんだで好きなことを認めます。

 

まあ、私は今彼氏がいないので残念ながらサンタさんは来なかったよ。

実はいたりするのかな、なんて朝ベッドの横を見てみたけどダメだったね。

 

子供はいつまでサンタさんがいると信じているんだろう。

私は小学校三年生までだった。

クラスの友達が「本当はサンタさんはお父さんとお母さんなんだ」って言いふらしたから、その日は大慌てでいろんなタンスを開けてプレゼントを探したものだった。

 

子供が願うものは決まっておもちゃだけど、うちの弟は「カメレオンが欲しい!」とねだって黙らなかったので、母は大変だったと思う。

 

最近「夢ってなんだろう」と考えることがあったんだけど、そう考えたら子供って突拍子もないことを願ったりするように、可能性があるんだと感じた。

 

カメレオンが欲しいしかり、ものじゃなくても願うならば、将来の夢がサッカー選手であってもいい。

何かを願うということは、願いが叶えられれば幸せになれるという自信に裏打ちされている。そこには計り知れぬ希望が詰まっている。

まさか将来の夢がお嫁さんな女の子なんて、いない。(そもそも論で、フェミから攻撃されそうね)

 

でも実際にサッカー選手になれる人なんか本当に一握りなわけで、夢の持つ力が大きければ儚さというのも底知れないのだ。

 

私の幼稚園の頃の夢は科学者というか、何かを生み出す発明家だったんだけど、なんで憧れていたのかは忘れちゃった。なかなか女の子では珍しいと思うんだけど、圧倒的に理数系科目がダメで気づいたらそのルートは手札から消えてた。

 

何か凄いものになりたいという、誇大妄想と承認欲求は大学4年生の就職活動で否定される、それはもはや通過儀礼だ。

 

はて、就職先が決まって卒業が確定している身分の私の夢ってなんだろうか。

 

心当たりがあるのは、お給料を貯めて、中古でいいからMINIかワーゲンのクーペを買うことだ。

しかし、お金で買えるものなんてつまらない。

お金さえあれば、手に入るのだ。

何かを買うことを目標にするのはいいけれど、とんでもない人生の勘違いを起こす原因になる気がするのだ。

 

もっと、人生における、本質的な夢ってなんだろうか。

このまま漠然と進んでいく時間と、将来において、自分がどう暮らして、どうあるのか、想像ができない。

 

キラキラとした、何か、夢が欲しい。

 

もしサンタクロースがいるのなら、夢が欲しいって言いたいな。

 

クリスマス

星の降る夜にでも

叶わぬ夢だってあるだろう

小さい頃はおもちゃをねだったけど

今願うのは お金じゃ買えないもので困るよ 

 

open.spotify.com