わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

サマー・エスケイプ

 

「イチゴ」 赤

「チーズ」 黄

「サマー」 青

 

スーパーマーケットのパン売り場に陳列されていた。

右から、信号の逆に、陳列されていたパン。

セロファンの安っぽいパッケージに、ゴシック体で名前が書かれていた。

 

「イチゴ」 赤

「チーズ」 黄

「サマー」 青

 

パンって言うのとはなんか違う、

でもケーキというのは恐れ多い感じのやつ。

 

フワフワの触り心地の良さそうなシフォン。

上には少しカサカサとしたフロストがかかっている。

真ん中には丸い穴が開いていて、クリームが巻かれている。

 

「イチゴ」 赤

「チーズ」 黄

「サマー」 青

 

何だか、反芻してしまう。

庶民的なスーパーの一角に、特売90円で売り出された大量の

「サマー」が目に入ってしまうからだ。

 

「サマー」って一体、どんな味なんだ?

「サマー」が何味かよりも、どんな味なのかが気になった。

「サマー」という名前で修飾されたパンは、どんな味なのか。

 

そもそも「サマー」の味を知らないからだ。

何となく、青、夏とくるとブルーハワイのような味を想像してしまう。

 

しかし、ブルーハワイが「サマー」というと何だか納得し難い。

もっと、夏って甘酸っぱくて、少し儚さを孕んだものなのではないか。

潮の香りと、少しのほろ苦さ、何故か涙の味もしそうだ。

 

神格化しすぎだろうか?

どんな味なのか、知るのが恐ろしくて私は手に取らず帰ってきてしまった。

 

 

それでも、夜ご飯を食べてもお風呂に入ってもベットに入っても「サマー」のことを考えている。

 

「夏」という単語よりも「サマー」という単語は何だか感傷的にさせる気がする。

 

ラブリーサマーちゃんや、

Nastu Summer

(500)日のサマー

 

など、何だか印象的で口に出したくなるものばかりではないか。

 

そこには、英語の原義としての響き…夏 以上の「サマー」に込められた、

青春の瞬きのようなものが感じられるのではないか。

 

 

 

この季節がこんなにも愛おしくなったのはいつからだろうか。

ずっと夏は嫌いだった。

 

暑いし、セミは大嫌いだし、大阪のクマゼミは超うるさい。

おばあちゃんに朝から叩き起こされて、涼しいうちに宿題をやりなさいって怒られたけど、

よく考えたら大阪の夏は、朝から暑かった。

 

大学生の夏は、バイト尽くしでお金を貯めてた記憶があるけど、これといって夏!の思い出はない気がする。

特段、ビッグな海外旅行には行っていないし、今年も残念ながらいけないことになった。

 

四年間、毎日が夏休みのような感じだったから。

いくらでも手にとるように休暇は存在していた。

(だからといって、暇ではなくていつも生き急いでいた気がするけれど)

 

 

でも今年の夏は、最後の夏だ。

宿題に追われ、昼まで寝て、寝ぼけ眼で冷やし中華をすする夏はもう二度とこない。

 

特段、神格化された「サマー」を口にするなんて

私にはとてもとても恐れ多いのだ。

 

今年の私は運転免許を持っている。

パスポートを持っているより、ずっとずっと行動範囲が広く感じられるのは、何故だろうか?

 

 

 

何度も二人は近づいているけれど
離れて初めて せつなさがくりかえす
いますぐ二人は 彷徨う陽のかけら
二度とは戻らない 夏の日を追いかけて

 

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幸福論

 

ほんとうの幸せを探した時に

愛し愛されたいと考えるようになりました。

 

椎名林檎女史は、こう語る。

作詞当時は、高校生だったらしい。恐ろしい。

 

椎名林檎の「幸福論」は純愛ラブソングだ。

歌詞の凄いところは、「愛」を論じているところだと思う。

 

好きな人の強さも、弱さも含めて愛する。

そして、そのためにあなたの哲学=メロディーを守り通す。

好きな人が存在するだけで幸せなのだ。

 

と。

 

本当にその通りだと思う。

初めて聴いたのは高校生の時で、その時は恋愛体験なんてなかったからわからなかったけど。

恋愛を通して、音楽の歌詞に共感できるようになった。

クリープハイプをまともに聴けるようになった年だ。 

 

好きな人の、汚いところまで含めて心底愛する。素敵だなあ 。

 

本当にその通りだと思っていた。

 

 

しかし、残念ながら、今の私は保護主義である。

人の心にずかずかと入り込んでくる輩など必要がない。

果たして、「愛」こそが幸福なのか。

林檎女史の幸福論こそが、まかり通る世の中なのか。

 

もちろん、これも一つの「幸福」を構成する一つの要素ではあると考えている。

人と人、ラブ、なんて素晴らしいんでしょうか。

 

人には人の幸福の条件があり、心身ともに「コンポジション」がそこには存在している。

だから、心底愛し合う二人は美しいという意見は、一般的に流布しているから、ある程度理解ができる。

 

 

しかし、「幸福論」となると話は別だ。

一つの論として、これが幸福であるという論がまかり通る世の中はかなり危険だ。

それこそ、思想統制への始まりである。

 

私は毎回、はてなのタイトルに楽曲を当てているけれど、今回は椎名林檎に捧げたものではない。

 

寺山修司の、『幸福論』という書籍に当てている。

この随筆は、アランの『幸福論』を徹底的に否定し、独自の幸福論を提唱している。

自慰行為、変装(コスプレ)、マッチョイズムに存在する幸福、幸福から眺める善・美とは何か。

 

シラノの鼻や、ノートルダムのカジモド*1の背中の瘤は、何らの実用性をもたなかったという点で、美であったかも知れない。

しかし、マリリン・モンローの肉体には美を超えた重大さーーこの時代の感情の反映としての道徳律のようなものが感じられる。

(略)

我々の肉体の美以外の部分について考えてみることが、「幸福論」を解きほぐす一つの糸口になるのではないかという気がするのである。

 

床を削る人々』 ギュスターヴ・カイユボット | ネット美術館「アート ...

 

親愛なるカイユボットの「床を削る人々」を思い出した。

 

筋肉がついた、しかし細い腕、労働者の汗。

美とは違う、そこに存在する「良さ」を寺山は善としているのだ。

 

寺山との出会いや、最近の寺山ブームに関してはかなり話すと長くなるから、いつかかけると良いな。

すぐに書けはしない。

私の人格形成に深く携わっているからだ。

 

 

・友や恋人

・健康的な生活

・質の良い睡眠

エシカルライフ

・美味しいものを食べる

 

こんな、ステレオタイプの幸せを追求する世の中で、私でいいのだろうかと思う。

なんてつまらない人間なんだろう。

 

もっと、自己としての、固有の幸福論を作り出すべきだ、論じるべきだ。

私は私しか存在しないし、理解し得ない。

そして、私も他者の幸福論を理解するところから始めなければいけない。

 

そして、皮肉なことにも、自分が一番ステレオタイプに囚われた窮屈な人生を送っている。

 

そして、永遠のロマンチストという事が、なんとも、皮肉。

 

 

 

【冗談】

というのも、これはクセの話と似ている。

私は、コップに残った飲み物を1センチだけ残してしまうクセがある。

多分茶渋を飲みたくないとかそういう理由で癖づいたんだけど、なんでも飲み物は浮かせちゃう。

 

1センチも残っている状態じゃないと、落ち着かない*2

残された1センチに、その水面にもう一つの対面世界を見出している。

私なりの幸福論。

 

 

なんと私の敬愛する「ほむ」も同じクセを持っていて、理解してくれない女の子にフラれたらしい。

偶然にも「幸福論」を共有するって、なんだかドキドキするね。

 

 

https://www.amazon.co.jp/幸福論-角川文庫-寺山-修司/dp/4041315263

 

*1:カジモドとは、ノートルダムのおどろおどろしさ=外見と清純さ=内面性を兼ね備えた美なのではないかと考えている。

*2:ちゃんとご飯は残さず食べる、残す人が嫌い。

TOKYO BLACK HOLE

 

地獄地獄、見晴らしのいい地獄。

世の中には理不尽な事がたくさんある。

 

「誹謗中傷はいけません」ということに対して反対意見はない。

問題は、それが誹謗中傷だと気がつかない人々のリテラシーである。

 

偉いおじさんが言っていた。

本当にそうだと思う。言葉は武器だ。

 

私は本日、インスタグラムのストーリーから、バイト先の人を非表示した*1

自己防衛だ。もう人にあれこれ言われたくない。

 

本当に、バイト先は狂っている。

先月だけでも新人が4人辞めた。原因は完全に人間関係。

 

そもそもス○バなんてそれなりの高級なやりがいとモチベーションがないとやっていけない。

職業差別とか、別に自分の仕事が尊いとは思っていない。

時給だってレジ打ちしている外国人労働者より低い。

時給以上のやりがいや成長、支えや貢献感を感じなければ続けていけない。

労働そのものがサービスなのだ。

 

人として、お客さんや仲間に対してアプローチ、コミュニケーションを取る事が求められる。

働いて見ないとこれはわからないと思うけど。

 

それに対して人間関係が最悪なんて、もう続けていく理由なんてない気がする。

だから、辞めて当然だと思う。賢明な判断だ。

 

仕事ができない新人の陰口*2を言ったり、囲ったり、フリーターがキレたり、社員もお手上げ。他店から心配されるレベル。

本当にかわいそうで、私は人材育成担当だったから自分が育てた後輩が辞めてしまうことは本当に、本当に辛かった、よくがんばったね。

 

 

もちろん、私も一時期一人からとても、とても虐められていた。

年齢経験ともに先輩にあたる人。実際には私より半年後輩だけどフリーター。

シフトコントロールをされるから、どんどん指摘される。

他の人には言われない細かいことを、とても怒られる。

これまで、三年間当たり前にやってきたことを頭ごなしに否定される。

そこまで怒ることではないことを、怒られた。

 

最初はそれに対して理由を説明していた。

言い訳ではなくて、話す事がお互いの理解になると思ったから。

でも、それも口答えとしか捉えられなくて、諦めた。

考えることを放棄した。

 

一時期本当に辛くて、毎回泣きそうになっていたし、バイトに行く事が鬱だった。

本当にしんどかった。

 

でも最近その人が急に優しくなった。

怖くて、意味不明で、今日同期に聞いて見たら驚きの答えが返ってきた。

 

かなっぺ、最初は尺に触ったけど、突き離したらいいやつだって気づいたよw

 

と言っていたそうだ。

 

人のことをなんだと思っているのだろう。

最低だ。

私にも感情がある、人だ、人として生きている。

人として生きることを求められる職場で、考えることを放棄するまでに至った。

それほどにまで私を追い詰めていたのに、彼女は気がつかなかったのか。

 

気付いていたかもしれない。気付いていただろう。

そこまで深刻だと考えていなかった、むしろいい気味くらいに思っていたはずだ。

 

私はもう周りの人間を諦めることにする。

見るのも見られるのも、勘弁してくれ、私にかまわないでくれ。

 

もうアホらしくなった。

クソッタレが。

 

 

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*1:めっちゃ囲いの2,3人だけ残してる。

*2:死ねレベル

La Vie en rose

 

ばら色の人生 エディット・ピアフ

 

来月のカードの請求が久しぶりに10万を超えてしまった。

外出てないのに…

 

ここ最近ネットショッピングにハマってしまい、怒涛の買い物祭りをしている。

全部そんなに高くないものなのに、積み重なるとこうもなってしまうか。

8月の旅行代金、ジャニーズのオンラインライブ代金、コスメ代、新しい下着を買ったり*1様々なんですが…

 

特に家電代が圧迫している。

ついにAirPodsを買った。ついに

しかもProの方である…すぎょい。

つけた瞬間ノイキャンが作動して、時が止まった。

私だけの映画が始まった感じがする。エモいね。

 

あとはヘアアイロン

ヘアビューロン欲しかったけどさすがに5万は厳しいので諦めた…。

有名なクレイツのやつ。

サロニアのコーティングが剥げちゃってこれじゃいかんと思って買った。

 

なんだかんだで自分には必要なものなんだけどなあ。

たけえ。

 

フランス旅行のために半年以上頑張って貯金してたのに、行けそうにないからいいよね〜っていって馬鹿みたいに散在している。

本当に毎月クレカの支払い15000円だった頃に戻りたいね?

 

 

 

フランス旅行に行けないことは、私のことをかなり追い詰めている。

 

苦しい就活やバイトの生きがいとして頑張っていたのに、

コロナが流行してしまって、全てやる気がなくなってしまった。

朝6時半から夜10時までバイトしていた私はどこにいったのか…。

汗水垂らしていた私、自分の足で稼いでいた私。

 

惰性で生きている。

 

だから、フランスにまつわる文学作品や、旅行本や、映画をたくさん見ることにしている。

エア、トリップです。

授業も映画分析やフランス文化にまつわるものを履修していた。

そんな上半期だった。

 

 

そんな中で、最近出会ったのがオードリー・ヘプバーン主演の映画。

オードリー・ヘプバーン

 

実は映画オタクを自称していながら、ヘプバーンの作品は「ローマの休日」しか見た事がなかった。

というのも、みんながオードリー!オードリー!いうからなんかひねくれて「私はアンナ・カリーナ派だから!」と天邪鬼になっていたからで…。

こりゃまた恥ずかしいファッションなわけだ。

だから、この二日間くらいで数作を一気みした。

 

 

ヘプバーン自身はハリウッドの女優だ。

だからパリとは何も関係がなさそうに見えるが、実はパリを舞台にした映画に多数出演している。

麗しのサブリナ」「パリの友だち」「パリで一緒に」「シャレード」など…。

 

全世界の女子のおフランス趣味を加速させるといっても過言じゃない。

ツーリストとしてヘプバーン演じる主人公がパリに赴き、恋に落ちる作品が多い。

 

「La Vie en rose」は「麗しのサブリナ」でヘプバーン演じるサブリナが口ずさむシャンソン。伝説の歌手であるエディット・ピアフが原曲を歌っている。

 

麗しのサブリナ」といえば、ヘプバーンとジバンシィの邂逅を表す作品としても知られている。

ビリーワイルダー特有の恋愛コメディに対し、ジバンシィの優美なデザインの洋服が映えて本当に美しい。

 

前回のブログで香水とブランドの関係性について述べたけど、「パリで一緒に」には素敵なエピソードがある。

ジバンシィは世界で初めて香水がクレジットされたからだ。

香水は香りだけでなく、ブランドの世界観を忠実に再現する事が大切。

映画という「香り」がわからないものに対して、香水がクレジットされたということはなんだかブランドにとっては大変名誉だと思いませんか。

 

まあここまでつらつらと書いてきたけど、

やっぱり私は数作見てて「オードリーに憧れる」ことはなかった。

もちろん本人はとても美しいし、後年は慈善事業に励んでいたことはよく知っている。

 

 

でも、世の中の女の子が彼女に憧れるのはとても時代錯誤な気がする。

麗しのサブリナ」は所謂パパ活女子の話だし、「ティファニーで朝食を」なんて彼女のキャリアを揺るがすレベルのスキャンダラスな役柄、高級娼婦である。

 

他の作品も大抵相手は40超えたおじさんばかり。

Metoo 運動やフェミニズムが高揚する世の中で、オードリーが好き!だなんてかなりファッションな気がするのだ。少なくとも彼女が演じている「映画の中の」彼女においては…。

 

まあ顔が可愛いからなんでもいいんだけど。

ドヌーヴやBBがMetooに苦言を申したことに対して、世間は批判するくせに、若さを売りにして甘い蜜を吸う女が許せないだけなんですね。

 

汗水垂らして稼いだ私の貯金と、そこにお金の価値はなんら変わらないよ。

でも、確実にそこには擦り切れていく何かがある。悲しくなってしまう。

 

ティファニーで朝食を」食べたいと思っている女子の中に、さて本当に本作を見た女子はいるのだろうか?

彼女、ニューヨークのティファニーの前で、自分のお金では買えないネックレスを見ながら、

所詮デニッシュを齧っている御身分な訳だよ。

 

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*1:ノンワイヤーのやつ買ったら、アンダーガチガチなのに胸パカで泣きました

Blue Monday

 

そう…。ねぇ…私たち、このまま二人で、怪物になって…

こんな世界、何もかもメチャクチャにしちゃおっか?

 

嫌なことも、悲しいことも、全部無かったことにしちゃえるぐらい、壊して、壊して、壊しまくってさ…。

それはそれで、良いと思わない?

 

 

まどマギのほむらちゃんの言葉を思い出した。

 

こんな世の中は腐ってやがる、壊してしまえばいいと思う。

天使が生きるには汚すぎる世界

誰もが苦しい、今にも溺れようとしている。

 

 

三浦春馬が生きた歴史は、言わば私の中の原体験だ。

原体験というものは、精神形成においてとても重要だろう。

 

小学生の頃に私はよくドラマを見ていたんだけど、よく出演していた。

ごくせんでは三浦春馬推しだったし。

 

その後あまりテレビを見なくなっちゃったから、彼の仕事をずっと追いかけていたわけじゃないけれど、キンキーブーツやNHKの番組でとても真面目な人なんだなと思ってた。

 

そんな彼が突然、居なくなってしまった。

衝撃を超えて、絶望だった。

信じられないし、涙が止まらなかった。

 

何故だろうか

私の人生に直接関わったわけではないのに

それほど重要だと考えていなかったのに

 

とにかく頭に何も入らない1日だった。

ただそこにある虚無、絶望。

 

私みたいな人は沢山いると思う。

本当に、日本中にいると思う。

特に同世代の人は、私と同じドラマや映画から原体験を得ている。

 

三浦春馬は現代のイアンカーティスに、カートコバーンに、リヴァーフェニックスに成るのだろうか。

神聖化され、人々の夭逝の象徴になってしまうのだろうか。

 

 

 

誰かが悪いわけじゃない。

死ぬ事が悪いと言いたいんじゃない。

きっと「何故」が世界に溢れているけれど、本当の気持ちなんか誰にもわからない。

どれだけ想像しても、泣いても、絶対にわからないし返ってこない。

生命の価値なんか、所詮ちっぽけで、誰も守れなくて、時価だから。

 

こんな社会は狂っている。

 

誰が遅延電車を咎められるか

誰が人に簡単に死ねと言えるか

誰が嘲り罵る事ができるのか。

 

生命の価値なんかわからない。

相手が決めるものじゃない。

人は、死ぬとき死ぬ。

 

 

でも、外的要因が、社会が、どれだけ人を追い詰めるか、もう一度考える必要がある。

誰かが一様に価値を判断すべきではないから。

 

 

 

 

 

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Fashion

Fashion! Turn to the left
Fashion! Fashion!
We are the goon squad
And we're coming to town

 

 
ボウイの「Fashion」は ファッション を皮肉った曲だ。
ブランド着てるやつもうグッナイ。
 
別にブランドを着ていてもいいのだ。
全く問題はない。ヨンスが言ってるのはそうじゃない。
世界で名を馳せる有名ブランドやサロンには、それなりの金額にみあう歴史と尊厳がある。
 
問題は、いかにそれらを人々が理解し、身に着けるかにあるのだと思う。
 
 
ブランドには哲学がある。
例えばシャネルは女流デザイナーが新たなスタイルを生み出し、女性の社会地位向上を促した。
ケンゾーなんかは、ありのままのライフスタイルを生きることをポピーの花に例えている。彼はフランスで最も著名な日本人だそうだ。
 
 
 
私が面白いと感じたのは香水の哲学の例である。
香水は、つまり香りだが、香水に求められるのはただの香りに止まらない。
 
香りが、いかにそのブランドの信念やスタイルを表現しているかが大切だそうだ。
 
元祖香水ブランドのゲランの「夜間飛行」が未だに好まれるのは、そこに込められたある飛行士のお話に、人々が共感するからだ。
 
シャネルの5番があれほど高貴に感じるのは、人々が憧れを感じるからだ。
 
個人的にはシャネルの5番はおばさんくさい。香りだけならそう感じるけど、マリリン・モンローを思い浮かべればそんな事もどうでもいいし、なんなら威厳と尊厳を感じる。
 
 
 
 
ブランドが作られ、どのような信念でモノを作るのか。
つまり、スタイルや哲学に対し私たちはお金を払う。
身に付けるから、社会的アピールを買っているとも言えるだろう。
 
だからこそ、社会の人々は、ブランドがいかに社会問題に取り組んでいるのかに敏感だ。
モデルの人種差別問題や、ジェンダー問題が批判される所以はそこにある。
 
ブランドが有する哲学、付加価値にはやはり社会に認められるだけのポジションや経営方針、責任が求められるのだ。
そういったリベラルな思想、ハイソな思想が「トレンド」を作り、そして「スタンダード」になっていく。ハイブリッドカーだって、エコファーだって最初は富裕層の消費者意識だから。
巡り巡って私たちのような一般市民にも通用する社会的常識となっていく。
 
 
みんながメゾピアノが好きで、ポンポネットが好きな時代は終わったのだ。
人気なものが、お洒落に見えるから、お勧めされたから、という理由でモノを選ぶのは恥ずかしい。
最も、お金を払って何もないただのあなたにとって「高いモノ」に投資をする事が最も恥ずかしい。
 
 
 
 
最近よく美術館に行くのだけれど、行く先々で写真撮影可能な美術館が増えているなと感じる。
私ももちろん記録として写真を撮る作品もあるけれど、本当に感じるのは、写真を撮る事が目的になりすぎて、作品本来の「生の息吹」を感じることに鈍感になりつつあることだ。
 
ふと我に帰って、じっくり作品鑑賞をすることを心がけている。
写真なんか、複製だ。
ネット上でいくらでも見られる。その場で感じることを感じられないものは馬鹿だ。
 
 
美術館のインスタグラムの投稿を見ると、まあインスタ映えな「自分と絵画」のポストが溢れていていたたまれなくなる。
彼らは本当に作品を見ているのだろうか。
今日行った美術館なんか、写真の美術館だったんだけど、「作品(写真という複製)と映る自分」の写真なんて、目も当てられないインスタレーションだ。
 
本当に自分が好きで、信頼を置くものを探そう。
私は未だに、高校生の時に見た、一度きりしか見ていない、ルドンの絵を鮮明に覚えている。
ルドンが、好きだからだ。
 
 
 
 

脱衣麻雀

 

 

日々更新しないと、ボキャブラリが死んでいく。

つまり、見聞を広めよということなのだ。

脳が腐ると、人と喋らないと、映画を見ないと、本を読まないと

口から出てくる言葉がおよそつまらないものと化してしまうのだ。

 

結局今口にしているのは、他人の受け売りにしか聞こえない。

これがババアになっていく感覚か、これが。

高校生から大一にかけて出てきた私のエモーショナルな表現は、もはや死んでしまったのだ、ぴえん。

 

愛の飽和水蒸気量は満タンなのよ、心もね *1

 

彼氏もワンルームも要らないから、私だけの傘が欲しい *2

 

ふと、考えて、ツムツムの手が動かなくなるものなのです 

 

みんなを蹴落として見る車窓は綺麗ですか*3

 

 

痛い、痛すぎる。

でも、この言葉はもう出てこないという事がわかると悲しくなってしまう。

 

歳を取るとは、きらめきが、ときめきがなくなっていくってこういう事なんだな。

所謂クリエイターの人、文化人の人はこのきらめきをいつまでも光らせ続ける事ができる点で優れている。

誰しもが思春期 青年期の憧憬を抱いている。

 

 

 

さて、この世にはふと突然生まれる詩があるそうだ。

きらめきを、ときめきを持った言葉。

偶然生まれては、消えていく無数の「無名文学」がこの世には存在する。

 

私の敬愛する「ほむ」は著書*4において、これを「偶然性による結果的ポエム」と例えている。

 

個人的に心に残ったのは、

『妊娠してなかったらなんでも買ってやる』

 

 

とんでもねえ失礼だ。

妊娠疑惑の恋人に向かって投げかける言葉としては最悪だ。

 

しかし、彼にとっては最善の「フォロー」なんだろうな。

なんでもしてやるから、まじで、妊娠は困る、とな。

にしても最低のフォローだ。

しかし、そこには最低だな!と笑って罵りたくなる不謹慎な美しさがある。

 

ちなみに結局買ってもらったのはライターらしい。

 

 

ここまでつらつらと書いてて、私は言葉の美しさとはやはり滲み出るものだと考える。

 

けれど、そこら辺にあふれている無数の言葉を「美しい」響きだとか、「面白い」響きだとか捉える感性も、また素晴らしいなと思った。

 

感性を磨く、日々更新する。

やはりそうしないとボキャブラリは磨かれていかないし、観る目(捉えるのは耳?だけど)も磨かれていかないのだなと感じる。

 

 

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*1:彼氏と一番中良かったとき

*2:すげー雨降ってたのに傘買わずに帰ってきた気がする

*3:学歴コンプで、指定校の奴がうざすぎた高3の日

*4:絶叫委員会〈2013〉