人類の淘汰について、思うことがある。
人が死ぬことは、いけないことなのだろうか。
とりわけ、自殺についてだ。
私は、いけないことだと思う。
これまで死は救済だと思っていた。
公的な意味なんて、自己の世界では何の意味を持たない。
誰がなにを言おうと、「自死」は「私の選択肢」だし
それこそ、誰になにを言われる筋合いもないから。
私が幸せでない世界なんて、それは世界ではないから。
でもね、それでも死は救済であってもね、いけないことだと思う。
人は、血の詰まった輸血袋ではない。
昔のブログで書いたように、私は三浦春馬さんの死に衝撃を受けた。
対して人生に重要ではなった人
偶像でしかなかった人
それでも幸せそうに見えた人
それらが、一夜にして、儚く消えてしまった事
命の尊さについて、深く考えることになったから。
私の身の回りにいる人が亡くなったと想像したことがなかった
死は近いものだ、と考えていたけれど思い違いもはげしい
確かに死は近く、絶えず、そこに存在している。
近すぎて、見えない。
自死であっても事故であってもいつどこで尊い命の灯火が消えてしまうかわからないから。
それに気がつかないことは、とても悲しいことだから。
人類の淘汰について、考えたいと思う。
うちのおばあちゃんは「なにがあっても死んではいけないし、先祖への無礼にあたる、戦争や病気でなくなった人、生きたくても生きられなかった人への無礼にあたる」
という。
まるで模範解答だけどね、うちのばあちゃんは続ける
「戦争時代は戦争、現代では現代、それぞれ時代の波についていけない人が死んでいく。遺伝子は時代の荒波に耐える強い人間によって紡がれてくの」
確かにそうだ、進化論的だ。
自死を選ぶ人を責められない私でも、納得ができる。
戦争がない今の社会。
人間関係や金銭、性的欲求に支配される世の中。
戦争がない、生きるしかない、苦しむか、苦しみ続けるかの世界。
誰もが苦しみを抱えている。
そこで淘汰されていくのはどんな人だろう。
わたしは、感受性が高くて、冷たいコンクリートのような閉鎖社会についていけない人のような気がしている、
とても、悲しくなってしまう、
人の人生や価値観、幸福度は変えられなくても、
そばに立って、温めてあげたいと思う。