わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

わたしのゆめ

私には夢がある。

いわゆる小学生がよく答えさせられる「将来なりたい職業」とは違うし、「将来達成したい、やり遂げたい」という明確な目的が存在するものではない。

私はその夢に、中学二年生の時から憧れている。

どれだけ甘美で、幸せで天にも登る気持ちになれるのだろうか。



その夢とは、自分の葬式に参列することだ。
(ほんとうに、天にも登ってしまうよ)


ここで勘違いしないで欲しいのが、
「葬式に参列したい≒死にたい 」という事ではないということだ。

人には精神が不安定だったりすると「死にたい」という願望が生まれる。

もちろん私もそうである。だから常に正常な状態の時でも「死にたい」と思っているわけではないのだ。

そもそも、常に死にたくて自分の事が大嫌いなやつはとっくに死んでいると思っている。私はわたしが大嫌いで大好きだ。

だからこそ、私は「自分の葬式に参列すること」に憧れてしまう。



とっくに死んでいる彼奴等以外の「死にたい」人なんて一過性のうつ状態である。

「死にたい」願望を抱えたあと、あなたはこう思ったことはないだろうか。


『私が死んだらみんな悲しんでくれるかなぁ』


そうやって、みんなが悲しむ姿を想像して涙を流す。でもやっぱりそんな人いないのかもしれない。と悲観的になってまた涙を流す。なんていうナルシシズムなんだ。


つまり私は『私が死ぬことで悲しむ人がいると確認することで私の生を再確認』したいのだ。自分の葬式に参列する夢はそんな私のナルシシズムに溢れた願望を内包している。


でも、この夢には欠点がある。

実際に死んでしまって、魂となった自分が自分の葬式に参列したところで何も変わらないのだ。

死んでいるのだから。もはや。

夢を叶えても実感することができない。


結局、自分が死んで生き返るのなんてありえないのだから。実現不可能な夢だから自己中心的な涙を流すだけで終わる。

私は生きたいのか、死にたいのか。自分でもわからない。

でも一つ分かるのは、生とは死を持ってでしか重んじることができないものだということだ。