先ほど、ベッドの上で本を読んでいた。
韓国焼酎のロックを「キリスト教入門」の上に載せていた。
ほろ酔いの上、サガンを読んでいたら、なんとなくまぶたが重くなってしまって、思考が停止した。
眠ると言うよりも、停止するといった方が正しい。
ぽたぽたと出窓に落ちる水の音が、私を呼び覚ました、それはわくわくするものだった。雨音だった。
昔から、寒い季節に降る雨が好きだった。
それが夜ならなおさらいい。
温められた部屋からすこし窓を開けて、外気を取り込む。
雨音を聞きながら、外を眺めたり、音楽を聞いたり、本を読んでみたりする、そんな時間が好きだった。
あれほど待ち焦がれ、あれほど苦しいと予想していた2月はあっという間に過ぎ去って行った。
1月と3月の、あの、いき急ぐ感じがしない、2月。
完全なモラトリアムを、私は鳥肌が立つ程の快感と合わせて、恐れや暴力といったものを内包していると考えていたのだ。
大学4年の2月。
宙ぶらりんの自分を、周りを、東京をなんとかつなぎ止めておきたいと考えてフィルムカメラを購入した。
27枚、3:2のコンポジションの中に春を閉じ込めておきたい、そう考えたからだ。
2月28日、3月を迎え入れる前にすぐに現像をしに行った。
「富士フイルム」の中に封印されし二月を、私は京葉線に揺られながら解放することになった。
そこには私が愛すべき人が、街が、そして愛されるべき私が、立って笑っていた。
写真を見返しながら、あっという間に過ぎ去った2月のことを思い出してみた。
様々な価値観に触れようと手を伸ばした期間だったと思う。
もちろん勉強や卒論が忙しかったのもあるけど、それを言い訳にしないくらい全力を尽くした。
愛について考えてみた。
他人のことを考えることは、自分について考えることだった。
自分を知ると言うことは世界とつながることだった。
つながった世界を理解したいと言う願いは、宗教世界や精神世界との邂逅となった。
恐ろしく、過ぎ去って行ったな、と私は思った。
台風のような一ヶ月だった。
2月、切なくあり愛おしくあり、もう二度と帰ってこない。
雨音でいっぱいの夜の空を眺めながら、私はふっと息を吐いてみた。
すると、私の息は白く3月の闇へと溶けて行った。
なんだか、少しほっとした。
それは、2月に手を伸ばした深淵と似ていたからである。
確かに2月は存在し、3月へと駆け抜けて行ったのである。