忘れることは生きること
なのかもしれない。
これは、半分諦めである。
本当は何も忘れたくないのだ。
忘れたくない、という若々しい抵抗のことも、ついに私は理解してしまった。
大人になったのだと思う。
忘れたくないけれど、忘れてしまう、生きるために。
そして、忘れてしまうことは決して絶望ではない。
悲しみではない、酷なことではない、不誠実ではない。
三月になった。
春だった、春がきてしまった。
日々人の優しさに触れながら、諸行無常を痛感している。
もう二度と合わないだろう人、会いたくても会えない人。
会うと思っていても、会わないだろう人。
季節の変わり目や人生の節目は、そういった、宙ぶらりんの無責任の、人間関係の「縁」の糸がぷつりぷつり切れていく音を聴いている。
とても切ないのだ。
とても切ないのだが。私は留保しておく。
「今は 永遠 に好き」
「今は 永遠 に仲良し」
「永遠」という幻想に、死の煌めきに手を伸ばしつつも、忘却への未来に進んでいくことを理解している。
運命の相手なんて存在しないし、永遠の愛なんて存在しない。
仕方がないことだと言うことを理解している。
何も陳腐ではないのだ。「今」がそうなら、それでいいじゃない。
人間だからね、仕方がないのだ。
どうしようもできない運命に争うことはやめようと思う。
そしてふわり人生を漂流していきたい、私はそう思うようになったから、もう死にたいとかそう言うことも思わなくなるんだろうな、と思う。
人生を漂流していく中で、大木にしがみついてもそれがいつまでもつかわからない。
結局は自分を理解して、他人との境界を理解する必要があるのだと思った。
正直ね、エヴァをみるまでそう言うことも無理して理解しようとしてた。
「Beautiful World」に共感してた。
けど、みんなが気付いたら大人になっていたし、私も気がついたら14歳ではなかった。
誰も成長しないことなんてないんだね、シンジくん。
誰かを求めることは
即ち傷つくことだった