わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

カリフォルニア・ガールズ

 

人生はメタファーの連続なのかもしれない、と思う。

そう思うことがある。

 

 

昔、高校生の時の話

「若きウェルテルの悩み」を読んだ時のことを思い出した。

 

ゲーテによる著作、厨二病をくすぐる純愛とそれにまつわる自殺の話。

 

実際に話が面白かったとか、そういう訳では無いのだろうけど

私の人生に非常に、影響を与えることになった。

 

ある男が、無邪気な叶わぬ恋をして、しまいには拳銃自殺をしてしまう話。

ある男が、書簡として胸の内を打ち明ける話。

 

恋を知らない私は、こんな甘美で残酷な恋愛があったものか、と非常に感銘を受けた記憶がある。

 

 

「若きウェルテルの悩み」で知った言葉に「荘厳」という言葉がある。

 

日常生活にはまず出てこないだろう、ちょっと高校生には難しい言葉かもしれない。

非常に厳かで、立派だという意味が字面からも分かる。

 

 

 

きっとほかの人にも経験があるのだろうが、知らなかった言葉を知ったあとの人間は強い。

 

知らない言葉を知った瞬間、その言葉ばかりが浮いて、特別に見えてしまう。

 

知らない言葉、厳密には触れたことの無い言葉というのは人間には存在しないのかもしれない、と私は思う。

 

あまねく「何か」は存在している、

 

空気のように存在している、

空気を意識して吸っている人はいない、

しかし空気を意識した途端、窒息死しそうになってしまう。

例えば、過呼吸のようにね。

 

存在している「何か」を意識した時に、世界の見え方が変わってしまう。

 

知る前と知ったあとでは、ガラリと変わってしまう。

まるで特別に、私のためだけに世界が再編されたように感じられる。

 

 

間違いなく、それは私の知覚という物が、ただ研ぎ澄まされたにすぎない。

特別なものなんて何も無い。そう考える。

 

 

 

そう考える一方で、

 

これはやはり特別なのではないか、

ただの偶然ではない、

なにかの象徴であるのだと

 

つまり人生はメタファーの連続なのではないか、

と考えてしまうのは、あまりにもロマンティックすぎるだろうか?

 

 

どんな出来事もこれまでの布石のように考えられる。

まるで必然のように、読んだ小説にあの人の名前が出てきたり、街中であの音楽が流れたりする。

それはおかしいくらいに私の心を刺激する。

 

それも、連続的に現れる。

イデアイデアの境目を、メタファーが埋めていく。

まるで人生が仕組まれているかのように、上手くいったり、「上手くいかない」ということが上手くいってしまう。

 

 

私たちは今日もこうやって少しずつ無知を克服していく。

無知の知を得ている間は、こういったふうに人生の答え合わせをしていくのかもしれない。

 

全ては存在している。

存在している「何か」を意識した時に、世界の見え方が変わってしまうだけだ。