わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

月と六ペンス

感情には理性のあずかり知らぬ理屈がある

職業は何ですかって聞かれた

「ポール・ゴーギャンの前職と一緒です」って言っておいた、ちょっとかっこいいでしょ。

 

ポール・ゴーギャンは家族を捨てて画家になった。

画家にならざるを得なかった。

株式仲介人を経た25歳、ある日のことだった。

自分は画家にならざるを得ないと、そう思った。

 

だから私も「ポール・ゴーギャンみたいなりたいです」って言いたいな。

私は、25歳のある日、何もかも捨てて、解脱する、「生まれた理由」を知った時、何かが私の主義になる。

 

世捨て人に憧れるのは、世を捨てる勇気がないからなのだ。

世を捨てるほど熱心になれるものがないからなのだ、ほんとうは。

何かに熱心になれるということはすごいことだと思う。自分の存在理由を圧倒的に見出す。形而上学的だ。

 

瀬戸内寂聴のことを批判するのは、心のどこかで「自分にはできない」と思うからだ。

彼女は誰もできない、しようと思ってもできない手段で小説家になった。

ポール・ゴーギャンとその点では全く一緒なのだ。

 

 

世の中にできないことなどない、自分の限界など存在しないし、自分以外に世界は存在しない。

 

結局は自己満足の世界なのだから、

何か他人の目を気にしてしまうという行為は自分に対する言い訳というか、嘘のように感じられるよな?

 

人生に対する矛盾、

それで私はいくらか無限に広がる選択肢を狭めてしまったように感じられる。

 

ある程度他人に対する配慮はマナーというか、社会規範だろうけれどもね。

 

 

閑話休題

 

 

「薄っぺらい」という言葉に関心を持っている。

私にはいくらか捨ててきた人間関係があるが、それらを「薄っぺらい」と切り捨ててきた過去はどのように評価できるだろうか。

 

過去を懐古する事は虚しさを孕む、過去から学びこれから生きるという事は尊いも私は思う、だから研究したいと思う。

 

 

当時はそれでいいと思っていた。

人を邪険に扱ってしまうのは、自分に対する自信がなかったからだと思う。

自分を大切にできない人は他人のことも大切にできないってほんとうだと思う。

 

誰しも適当に笑って生きてきたわけではない。

自分が薄っぺらく感じる人間は、自分にとって薄っぺらく感じるだけなのかもしれないと今は思う。

 

「愛している」

なんてありふれている、つまらない言葉だって

それだけで切り捨ててしまうほど世界は救いようがないのだろうか?

 

私は最近そう思わなくなった。

みんなが誰かの特別で、特別であることが普通の世の中だから、

誰しもが世界の主人公、それが普通の世の中で、ありふれている。

 

特別な人たちが放つ普通の言葉に、私が「つまらない」「薄っぺらい」と邪険に扱う、その理由も立場も、どこにもない。

 

全てのものに意味がある。

 

 

 

薄っぺらくありふれていると感じる言葉は、きっとこれまでの経緯や不要な部分が削ぎ落とされてしまった結果なのだ。

 

たとえばジャコメッティの実像、

実存主義、人間の体の不必要な部分を削ぎ落としたらどうなるのか?

どこまでも細く、長く、平たい、鉛筆の芯のような感じ。

 

鉛筆のような、鉛筆の芯のような言葉で愛してくれよ、

鉛筆の芯のような「愛している」は、どこまでも細く、長く、厚いのではないか?

そう思う。