わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

サラバ、愛しき悲しみたちよ

 

いまShift+Cでコピペ出来なかったことに気がついた、くらいにはMacを触るのは久しぶりだなと思ったところだった。

 

Macを開くのは何か私がものを描こうとする時であるし、大抵それは何か心に触れる文学作品を読んだ後である。自分が小説家になったかのように自分の言葉で何か物語りたくなってしまうのだ。

何故だかこれは本にだけ起こる現象である。私は一番好きなコンテンツの媒体は映画であるのだが、音楽もそれなりに好きであるのだが、やはり文章がもつ強さか何かには勝てないと思う。

 

まあつまり何が言いたいかというと、私は最近何も本を読んでいなかったし、昔はよく読んでいたし、そして今さっき新しく読んでいた本を読み終えたということなのだ。

 

最近読んだ本…最近「老子*1を読んだが途中で止まっている、その少し前にはモームの「お菓子とビール」*2を読んだ。これもかなり時間がかかった、もはや本が面白くないというか自分の問題のような気がする。一度読み始めると最後まで読み切るのはあっという間で、1日4時間くらい本を読んだりしてしまうのだ。

 

そして昨日やっと川上未映子の「乳と卵」を読み終えた。実はかなり放置していた。中編の小説なので1日でどう考えても読み切れる量なのだが、時間がかかった。というのも実は私はこの作品の文体が苦手だった。

 

関西からやってきた豊胸をしたい母とまだ生理も乳のふくらみもままならない娘の話なのだが、ずうっと関西弁を垂れ流しているわけね、すごく読みづらかった。世間で評価されている割には下品というか、あまり美しくないなと思ったわけ。

 

うーん、と思いとどまり放置して早一二ヶ月、一気に読んでしまおうと台風でやることもないし。読んでみたのだけれど、読んでみればなかなか最後は落ち着いたというか、文章がすっと胸に飛び込んでくるようになった。

音読をしてみたんです、よく辛いことがあると私は思考を止めるために美しい文章を音読してみるのだけれど、そうすると娘の自語り、関西弁がなんだか私のことを言っているよな気がして。

 

そういえば昔、中学生の頃の話だけれど、私は人よりも生理が来るのが遅かった。胸がふくらみ始めるのも遅くて、高校生の時もブラジャーってしてなかったと思う。今も大きくなくてすみませんね。

それで、中学の時、隣のクラスの胸が大きい女の子を見て私は「気持ち悪い」とか「いやらしいな」という嫌悪感を持ったことを思い出した。

 

それは私は少女のままでいたい、という退廃的な羨望ではなかった。

間違いなく成長に対する、大人に対する汚らわしさだった。

修学旅行で「私の裸を見られる」ような破廉恥な行為も嫌だったし、ナプキンを貸し借りする友達も汚らわしかった。

 

なんだか今からすればわらけてくる。

何がわらけてくるかというと、人間になりきれてない人間が、人間であることを拒否している、断固として認知しません、と言うかのようだからだ。

 

人間の単純な欲求を満たすために、人は愛がないセックスをすれば良いと思うし、整形もすればいいと思うし、深夜にカップラーメンを食べればいいと思う。

それを批判する権利は誰にもない。

 

シンプルに認めてあげればいいのにな。

それでも、人間性…ヒトとしての意義を、欲望を否定する冷たさが社会には存在する、

まるでパンダの性行為をテレビで見たときのような気持ち悪さ、

少女のような無垢で残酷な拒絶をしてしまう、社会に対する生きづらさが確かにそこにはある。

 

それは私の中に時より生まれてしまう原始の記憶からくるのかも知れない。そう言ったことを思い出した。

*1:これはお客さんから借りた。老荘思想無為自然を説く説話だが大体は同じ話の繰り返しな気がする。仕事をしているのがアホらしくなってくる

*2:この時代には珍しいかも知れないが、すごいビッチが出てくる。でもビッチの言葉もそれなりに納得できる

アナーキー・イン・ザ・1K

 

誰かの繊細な祈りを永遠にしたい


私はこれから死にゆく運命である、と言うのも運命は変えられない。

永遠の命など存在しないし、望むべきではない、

形あるものはいつか崩れゆくが故に美しいのだと思う。

 

かつて、摩天楼の美しい夜景を目にしたことがある、

その数えきれない輝きは幾千という働きによって保たれている。

 

美しさを保つと言うことはとても難しい、抗えないことだと思う。

形あるものはいつか崩れゆく運命である。

 

今が一番素晴らしいと実感しながら、儚い永遠を理解し、崩れゆく姿を目にするのはとても辛い。

 

私は今ここにいます、なんとか食いしばって生きています。それはとても尊いことだと思います。

 

あれだけ死んでしまいたい、生きている意味なんて到底ないな、と思ったことは幾度とあるけれど、「ああ、幸せなのはこれきり」と思えるほど人生は素晴らしい。

 

それでも、いつか死にゆく運命なのです。それならば、私は私の美しい、繊細な祈りを永遠にしたい。

それは私が誰かを愛し、愛されたい、

それ以上に愛したいと言う欲望の上に成り立つ祈りを。

素晴らしき人生のはなむけとして。

家族構成

 

家族、という存在は非常に難解である。

家族であっても他人であるし、完璧に理解することなどできない。

家族であることを理由に、必要以上に干渉してしまうしされてしまう。

 

人間、この世に生を受けた以上、一生孤独である。

家族であっても他人であるし、完璧に理解することなどできない。

家族、という存在は非常に私を困らせてきた。

 

思い返してみても、父と遊んでもらった記憶はない。

昔、本当に昔に映画を二人で観に行ったことがある。

父が見たい映画だった、子供向けじゃなかったから全然覚えてないし楽しくなかったけれど、父が私を連れ出した唯一の体験だと思う。

昔、クリスマスの夜に家に帰ってこなかったことを覚えている。母は泣きそうになっていた。

 

思い返してみたが、母に関することで私は何度も泣いたことがある。

昔、母が二十代の男性と不倫関係にあったことがある。その内容をSNSに書き込んで開き直ったことを知っているし、父が知らないふりをしているのも知っている。

私にモラハラまがいの発言を何度もし続け、今でもそれは変わらない。それをアルコールのせいにするのも、もう十数年続いている。

 

家族、仲の良い家族が羨ましかった。

ずっとずっと、本当に羨ましかった。

「羨ましがっても、無理なものは無理だよ」と友達に言われてもそれでも羨ましかった。

仕方がないと思っていても、どうにかしたくなるのが人間である。

 

私の家庭は今崩壊したのではなく、もうだいぶ昔に終わっていた。

砂の城が、ゆっくりと波で風化させられるように

私には家族を家族の形のまま保っておくことを、なんとか手助けすることはできなかった。

 

 

自分の結婚式は開きたくなかった、

幸せそうな家族が崩壊してしまう悲しさを知っているから。家族を呼ぶことができないから。

早く家から逃げ出したかった、

だから今の生活を選んだ。

 

 

だからこそ、こんな今だからこそ、私は弟の存在を大切に思うし、申し訳ないと思う。

大学時代、弟に家族のことを全て押し付けて、両親が起きている時間は実家に帰らないようにしていた。

一人だけどうしても家族が嫌で逃げ出して、私は弟のことを実家に置き去りにしてしまった。

 

血を分けた兄弟、同じ境遇の人間は、この世界で弟しかいない。

弟はこれから就職をして、父は定年退職をして、おそらく大阪へと帰る。母は実家を出てしまった。

私以上に弟は孤独であり、社会から隔絶された存在である。本当に優しい子であるから、傷つきやすい子であるから、心配である。

私にはどうしようもできないのだけれど、これまで以上に弟と過ごす時間を大切にしたいと思う。この期に及んで、家族がいなくなるからって、本当に最低な姉である。

 

いろいろ考えていると、結局自分が全て悪いのかも知れない。

出来の良い、可愛い娘ではなかった。

全て家庭のせいにしてきたし、一ミリも好きじゃなかった。好きになろうともしなかった。

家族であっても別の人間であることを、本当に理解していなかったのは私なのかも知れない。

 

私はというと、ついに帰る場所がなくなってしまった。

人生の代償、

背水の陣、絶体絶命、これぞ人生、人生が本質を見せてきた気がする。

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I've Never Been In Love Before

 

So please forgiveThis helpless haze

I’m inI’ve really never beenIn love before 

 だからどうか許してほしい 

 私の中のどうにもできない陰りを、 

 ほんとうに、これまで恋におちたことがないのだから

 

この前チェット・ベイカーを描いた「ブルーに生まれついて」という映画を見ておったまげてしまった。

チェットは有名なトランペッターであり、薬物中毒者で有名だった。

 

ジャズが大流行した頃、ドラッグに溺れてしまった音楽家は数知れない。

チャーリー・パーカージョン・コルトレーンビリー・ホリデイ

そしてチェット・ベイカー

 

ヤク中というと派手な転落人生、犯罪や性的なスキャンダルなどそう言ったものを想起させるが、チェットは非常に繊細な人間だった。

繊細が故に、ドラッグに溺れてしまった。

何度も何度も、抜け出そうとしても、どれだけ愛する人ができても、

繊細が故に自分を許し、そして他人を愛する余力を持てなかった。

 

そんな彼が魂を捧げたのが、音楽だった。

どれだけ人生に追いかけられても、音楽を愛することだけはできた。

自分の言葉で語りかけるよりも音楽で語りかけるということしかできなかった。

 

私はボロボロのチェットから発せられる儚く美しい歌声に本当にびっくりするぐらい心を揺さぶられてしまった。

なんだかこの歌、私のこと歌っている、気持ちい。なんて。

 

私にも、そんな魂揺すぶることができればいいし、魂捧げる何かがあればいい

そのために、自滅することも余儀なくされても

何か自分の主義となることがあるって素敵だと思った。

 

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フランシス・ベーコンエッグ

 

時は全てを破壊する

 

辛いことがあった後の

「考えすぎだよ」

「引きずり過ぎだよ」

なんて友人の言葉は全部無視して仕舞えばいい。

 

時間というものが、存在というものが

確かであるという証明が「現在」でしかないのなら、

時間が私を、貴方を、「癒す」ことの証明はどうやって行えば良いのだろう?

 

 

時間が経ったからといって、何かが解決するわけではない。

 

むしろ時はすべてを破壊する。

かつて確かであったことさえ、今は何が正しいのか、証明する手立てはない。

 

流れゆく時間の中で「現在」をどうにかすれば別の話かもしれないけれど…。

 

 

「いい加減大人になりなさい」

なんてひどく辛い言葉をかけられてしまうストレス社会において、フランシス・ベーコンは時の治癒能力を否定してくれた。

 

彼については以前も書いた気がするけれど、

ベーコンは画家だった。

ゲイな恋多き画家だった。

 

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彼の描く肖像は、形が崩壊している。

肉片が剥き出しになっている、顔が空間と一体化している、ドロドロと、絶え間なく流れ出す。

 

彼は、感情を抽象的に絵に表す事を否定した。

あくまで、彼が描く肉体は、生物は、限りなく「物」として描かれている。

 

私がベーコンの絵を初めて見た時に、

「こんなにも私の悲しみに寄り添ってくれる絵画が存在するのか」

と嬉しくて悲しくて涙を流しそうになった。

 

しかし、そこには不確かな感情がなければ、不確かな時間という概念も存在しない。

ただ、崩れ落ちる肉体が散らばっているだけだ。

 

あくまでも形而下学的に描かれているからこそ、誰もが心の中身をベーコンの絵画に委ねてしまうのかもしれない。

 

「私の辛い感情はこの辛い肉体にやがて帰っていくべきなんだわ」と。

 

 

映画「愛の悪魔」で、ベーコンは時間の神話を否定した。

ベーコンはかつて、多くの恋人を作ったが、それぞれに大きく傷つき、そして傷つき続けていた。

 

傷ついている事を恥ずかしがる必要もなければ、克服しようと無理をする必要なんてないのだと思う。

 

ただ、傷ついている自分を理解して、なんとか現在を乗り越えていく、それこそが確かだと私は信じたい。

 

 

時間が何かを癒す、なんて言葉はまやかしだ。

何も癒えることなんてない。

 

荒廃した精神世界で、なんとかやっていく事で、

自分なりに折り合いをつける中で、

人間は今日も生きていくしかない。

 

猟奇的なキスを私にして

 

それを分け合って

誰と向き合うの?

 

ありがたいことに人生がうまく回っている。

 

学生時代、自分の幸せや自分の幸せの捉え方に満足がいかなかった私はずっと堂々巡りで悩み続けていた。

 

正しさをどこに求めるのか?

いや、どこにも求めなくていいのではないか、ということに気がついた。

 

私は過去の恋愛で酷く傷ついてしまったことを真に理解したし

逆に言えば、理解することでしか前に進めなかった。

誰か他の男で埋めようとしてもダメで、そんな自分が気持ち悪くて、逃げ出した。

 

結局中途半端なまま他人を求めても誰かを傷つけてしまう

そして自分も自分が嫌いになってしまう

 

それなら、とことんひとりになってやろう、そう思ってからはわりと心が楽になった。

自分を幸せにできるのは、やっぱり自分でしかないからです。

 

 

最近の話。

ありがたいことに人生がうまく回っている。

私はとても幸せだと思うし、理解もしている。

精神的に安定した状態が一年近く続いている。

 

長い長いトンネルを抜けた先で昼寝をしているのだが、

最近、この幸せを誰かに分けてあげたいという気持ちが昂ってきた。

 

それは、救済ではない。

シンプルに、単に誰かに喜んでもらいたいと思った。

 

もっと言えば

「誰かを幸せにしてやろう」

という心持がないととても恋愛なんてできないと私は思った。

 

「誰かに幸せにしてもらいたい」

という思いは自分を破滅させる

勝手に期待したり、勝手に絶望するほど心が擦り切れてしまうことはない。

 

私は誰かの天使になりたかった。

誰かの笑顔が見たかった。

あくまで利他的な、自己満足として。

せめてもの愛で、慈悲で、アガペーで、包み込んであげたかった。

 

 

 

それで、先日少し面白い出来事があったので残しておきたいと思う。

ティンダーで出会った童貞くんの童卒を手伝ってあげたのだ。

本当に、本当にありがとうと感謝をされた。

私は何も人助けをしたという気持ちは全くなかったし、むしろ自分が救われたようなきぶんになった。 

 

というのも、自分の体を差し出してこんなにも嘘偽りなく「ありがとう」だとか「かわいい」だとか「気持ちがいい」だとか、そう言われたのが、初めてだったからだ。

 

そこには、性愛や下心のような醜いものからは遠く離れた、美しい交わりがあったかのように思われた。単に、人から溢れ出す言葉の純粋さ、その煌めきにシンプルに感動してしまった。

 

シンプルに感動してしまったし、なぜこんなにも単純な喜びを、喜びとして受け止めることが今までできなかったのだろう?と思った。

 

自分に自信がなかったからかもしれない。

自分に対する称賛は、全て媚びや嘘のように聞こえた。

 

そして、これまでに人に大切にされたことがなかったからかもしれない。

人に大切にされるのが怖かったし、今まで蔑まれること、自分が我慢をすることは当たり前だと考えてきたからだ。

 

人から溢れる美しい言葉を、美しいと、受け止めたいと私は思った。

流れ出た言葉が空気中を漂う際に、バイアスや価値観に歪められないようにそっと手で包み込んでしまいたい、

私は美しいものを探すために生きているのだから、

 

そう思った。

そして、一人思い出して泣いてしまった。

 

本当に、本当にありがとうと感謝をしたいのは、実質のところ、私なのである。

 

 

「私やっぱ一人で生きてくわ」って冗談だろ?

 

 

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月と六ペンス

感情には理性のあずかり知らぬ理屈がある

職業は何ですかって聞かれた

「ポール・ゴーギャンの前職と一緒です」って言っておいた、ちょっとかっこいいでしょ。

 

ポール・ゴーギャンは家族を捨てて画家になった。

画家にならざるを得なかった。

株式仲介人を経た25歳、ある日のことだった。

自分は画家にならざるを得ないと、そう思った。

 

だから私も「ポール・ゴーギャンみたいなりたいです」って言いたいな。

私は、25歳のある日、何もかも捨てて、解脱する、「生まれた理由」を知った時、何かが私の主義になる。

 

世捨て人に憧れるのは、世を捨てる勇気がないからなのだ。

世を捨てるほど熱心になれるものがないからなのだ、ほんとうは。

何かに熱心になれるということはすごいことだと思う。自分の存在理由を圧倒的に見出す。形而上学的だ。

 

瀬戸内寂聴のことを批判するのは、心のどこかで「自分にはできない」と思うからだ。

彼女は誰もできない、しようと思ってもできない手段で小説家になった。

ポール・ゴーギャンとその点では全く一緒なのだ。

 

 

世の中にできないことなどない、自分の限界など存在しないし、自分以外に世界は存在しない。

 

結局は自己満足の世界なのだから、

何か他人の目を気にしてしまうという行為は自分に対する言い訳というか、嘘のように感じられるよな?

 

人生に対する矛盾、

それで私はいくらか無限に広がる選択肢を狭めてしまったように感じられる。

 

ある程度他人に対する配慮はマナーというか、社会規範だろうけれどもね。

 

 

閑話休題

 

 

「薄っぺらい」という言葉に関心を持っている。

私にはいくらか捨ててきた人間関係があるが、それらを「薄っぺらい」と切り捨ててきた過去はどのように評価できるだろうか。

 

過去を懐古する事は虚しさを孕む、過去から学びこれから生きるという事は尊いも私は思う、だから研究したいと思う。

 

 

当時はそれでいいと思っていた。

人を邪険に扱ってしまうのは、自分に対する自信がなかったからだと思う。

自分を大切にできない人は他人のことも大切にできないってほんとうだと思う。

 

誰しも適当に笑って生きてきたわけではない。

自分が薄っぺらく感じる人間は、自分にとって薄っぺらく感じるだけなのかもしれないと今は思う。

 

「愛している」

なんてありふれている、つまらない言葉だって

それだけで切り捨ててしまうほど世界は救いようがないのだろうか?

 

私は最近そう思わなくなった。

みんなが誰かの特別で、特別であることが普通の世の中だから、

誰しもが世界の主人公、それが普通の世の中で、ありふれている。

 

特別な人たちが放つ普通の言葉に、私が「つまらない」「薄っぺらい」と邪険に扱う、その理由も立場も、どこにもない。

 

全てのものに意味がある。

 

 

 

薄っぺらくありふれていると感じる言葉は、きっとこれまでの経緯や不要な部分が削ぎ落とされてしまった結果なのだ。

 

たとえばジャコメッティの実像、

実存主義、人間の体の不必要な部分を削ぎ落としたらどうなるのか?

どこまでも細く、長く、平たい、鉛筆の芯のような感じ。

 

鉛筆のような、鉛筆の芯のような言葉で愛してくれよ、

鉛筆の芯のような「愛している」は、どこまでも細く、長く、厚いのではないか?

そう思う。