わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

Paris 1919

「二十五まで生きるの」と彼女は言った。

「そして死ぬの」

 

一九七八年七月彼女は二十六で死んだ。*1

 

最近の恋愛に関して話しておこうと思う。

確かなものは現在であり、過去は訴求できない。

だからこそ、いまの所感を残しておきたい。

 

今私は医者と付き合っているのだが、なんとも不思議な感じである。

何もなければ25歳で死んでしまおうかと思っていたからだ。

 

というのも、私はこのまま人生が大きく変わることなく

つまらないもので終わってしまうのが怖かったから、だ。

つまらなく続いてしまう前に、終止符を打ちたかったから。

 

物心がついた頃から、ワタシの夢は「大学生」になることであり、それなりに名に恥じない大学に通いたかった。

多分親の学歴主義偏重のせいなのだが、結果として私はそこそこ名の通った大学に進学できた。

 

大学に進学できたことで私の夢は18歳で叶えられてしまった。

地獄だ。

情熱がない、大学に入学したところで何者にもなれない。

なりたい職業がなければやりたいことがない。幾つに結婚して、子供が欲しい、という人生の理想すらない。

 

絶望だった。

だから私は、夢を頑張って掲げてみた。

大学3年生の10月、絶対にパリに行くと決めた。

 

お金があれば旅行などいくらでもできる。

しかしその時は、人生に迷っており、とにかく「考える暇もないくらい」バイトをした、そうでなければ頭がパンクしてしまいそうだ。

 

そしてついに、9月に私はパリに旅行しに行く。

とても楽しみな一方で、とても怖くなっている。

 

また夢が実現されてしまって、この後の人生の目標がなくなってしまうと思うと、大変に怖い。

 

パリに行ったら、私が本当に死んでしまうのではないかと、思うと、怖い。

 

 

 

「何もない」という重圧に日々押しつぶされそうになっている。

これからの人生、社会的責任はますます大きくなり、人生の後戻りができなくなる。

人を愛することができない人生などつまらない、

何かを成し遂げようという情熱がない人生などつまらない。

 

この先日々生きていくための仕事をしては擦り切れてしまい、

一人、老人ホームの一室で人生を終える姿を想像しては、心が底無しの悪夢に取り憑かれるようだった。

 

 

そんな死にたがりの私に、医者が恋をしている。

人の生死の境目に立つ人物が、私に生きろ と言っている。

最強で最悪の慈善事業であり、何かの悪いジョークとしか思えない。

 

神様はこんな意味のわからない巡り合わせを用意して、本当に気まぐれだと思う。

出会いのきっかけも、非常に偶然的であり、この先二度もこんな出会いをすることなどないだろう。

 

実のところ、彼のことを好きかと言われたらまだ好きとはいえないのかもしれない。

愛情を一心に受け止めるだけであって、何か私が与えられるものは、今のところない。

キスもできなければセックスもできない。

これはもう生まれ出る悩みなのだが、私はどうしても「私のことが好きな人と性的なこと」ができない。

共依存に対する恐れなのだろうか。

 

愛の本質をアガペーと私は捉えがちだから、

「好きな人に何かしてあげたい」という自己犠牲が、この場合

「私が存在しているだけであなたは幸せ」という事実において達成されている。

愛の本質において、その事実以上に私が何かしなくてはならない、ということが非常にプレッシャーなのかもしれない。

 

だからわざと「私のことが好きな人と性的なこと」をする前に

あえて嫌われるような行動をとってしまう。それは自分に対する防衛本能なのかもしれない。

 

私が好きになる人は大抵、私のことが好きではない。

私のことを好きになる人を、私は今まで好きになれなかった。

 

 

彼は何も恐れることはないし、急かすこともこれからしない、と言ってくれた。

しかし、キスを拒んだ私に対する彼の眼差しの冷たさが、辛く心に突き刺さっている。

 

彼は過去の私ではなく今現在の私を見てくれている。

そして、私のことを受け入れて、理解しようとしてくれている。

彼の持つ地位や財力、行動力を使って私を幸せにする努力をしてくれている。

 

世間とズレているのは生来私の方であるし、この人生一台のチャンスを私は逃すべきではないと思う。

普通、人のことはすぐ嫌いにならなければ好きにもならないだろう。

 

やっと人生が前に進み始めている。

彼に出会ってから将来に対する漠然とした不安は少しずつ解消され始めている。

私はこれからも生きていけるのかもしれない、

しかし、考えるために、愛するために、私にはもう少し時間が必要だ。

 

 

愛について

 

「君が幸せそうにしている姿を見ているだけで、幸せだった。」

 

そう言われた。

 

完璧な時間が存在した。

空間が、時間が、止まっているかのようだった。

 

土曜日の夜9時前

酔い覚ましに入ったジャズバーで音楽を聴き、評論を読んだ。

空間を楽しんだ、週末の新宿、都会の喧騒の下、地下にあるジャズバーで。

 

音楽も文章も少し頭に入りづらかったけど、そうしていることが心地よかった。

重要なのは行動や理解ではなく、私がそこに存在するということだった。

私にとっては至極の幸せであるし、それを誰かに理解してもらう必要はない。

世界は私のものだけだ。

 

君の存在など無視して、一人黙々と。

 

やがて私は不安になり、少し君に声をかけてみた。

そして遂に君は沈黙を破り、私を眺めているだけで幸せだといった。

 

 

私はアイリッシュコーヒーを飲みながらジャズを聴いていた。

何も話せないし、何も話すべきではないと思った。

 

もし何か話してしまえば、この完璧な空間が壊れてしまいそうで

ただその時間には、空間には、言葉では表せない、親密さと濃密さがあった。

 

やがて二人は長い長い会話をし始めたのだけれど、

お互いの思考を探り合うような会話は興味深いよね。

 

できれば媚びたくないし、強がりたくもない。

私は今十分幸せであるし、これから一層幸せになる義務もない。

 

ただ、私には目の前に漠然とした絶望があるだけなのである。

それをどうすべきかは分からないし、どうにもしなくても良いかもしれない。

どうすることもできないかもしれない。

少なくとも、私以外の誰かが何かを「してあげるべき」ではない。

 

きっと君はそれを理解しているのだと思う。

 

 

だからこそ、私が「幸せ」である状態に介入しないことが素晴らしく

そしてその状態に寄り添うことが「幸せ」だと君は思うんだね。

 

誰かに何かをしてあげたい、というアガペーは自己犠牲によって成り立つと

今までは考えていた。

何か、役に立てる存在になるのは困難だ。

誰かのために自分をすり減らし、そして軽んじられ、磨耗していく

消費されゆくコンビニエンスでインスタントな恋愛。

 

しかし、私が存在していること

私が幸せそうにしていることが、誰かのためになるなんて

24年もの間考えもしなかったのである。

24年間、その事実から目を背けてきたのである。

 

幸せと幸せが補完しあっている、完璧な時間。

その体験が数日経っても頭から離れない。

 

 

 

Fame

 

君に話したいことがたくさんあるんだ。

 

この世で一番大切なものはカネ、なのかも知れない。

時に命すら投げ打ってしまう人もいる人だ。

しかし カネ=幸せ ではないことは誰しもが考える話だろう。

 

もちろんあって困らないことだし、ないよりはあったほうがいいだろう。

富というものは人々を鼓舞し、時に争わせ、そして争いを円満に解決へと導くこともある。

 

私は生まれてこの方、とりわけ激しい貧困に襲われたことがなければ、カネへの強い執着を持ってきたわけではない。それはありがたいことだと思う。

 

有り余る富が欲しいわけではないが、カネがあると人生の選択肢が増えるし、何より余裕が持てる。

私は今お金持ちであるわけではないけれど、多少の贅沢をしても毎日が心許ない気持ちになることはないし、ある程度の貯蓄は私を幸せにしていると思う。

たとえば、スーパーで少し高い豆腐を買ったり、季節外れの少し高い野菜を買ったり、そういうことが私の中の余裕、贅沢なのだ。

 

例えば、今すぐに会社をリストラされたとしても、数ヶ月はなんとかなるだけの余裕がある。だから生きることに後ろめたさを感じて行き急ぐことはない。

 

もはやカネは存在するだけで、人の心の持ちようを変えることができるのだろう。

私はカネの存在意義が、精神性において発揮されることを提唱したい。

 

カネの使い道は人それぞれだけれど、その人にとって合理的である使い方であればそれはそれでいいのである。

例えば、人から見れば「無駄遣い」な私の経験を語ろうと思う。

 

私は去年の冬にパチンコを打ち、半日で三万円負けてしまったのだが、全くの後悔はない。

むしろ、パチンコをやった、という事実、そしてパチンコの楽しさやつまらなさ、

パチンコにハマる人の心理や行動など、そういった理解を経験できたことが何よりの私の価値だったからだ。

パチンコした後に食べた千円のラーメンは、あまりにも不味かった。

 

たとえカネを使って行った行為が無駄な結果として終わっても、精神的奥ゆかしさを私は手に入れることができたのだ。

 

 

あとは女の子にありがち、男性から理解されないことの一つとして身なりに関してがある。

カネの使い道として、身なりを綺麗にする、ということに価値を見出しているのは比較的女性が多いだろう。

私は月に1万円をかけてネイルを綺麗にしてもらっているし、月に1万円をかけて髪の毛を綺麗に切ってもらっている。

 

カネを精神的経験に使うことと対比的であるかも知れない。

「自分自身がよければ良い」ということの裏返しで、爪はまだ自分で見ることができたとしても、定期的に染めて綺麗な髪の毛の色や、まつげパーマ、肌のエステ等は自分で自覚するよりも他者からの評価に大きく偏ってしまう。

 

しかし同時に「自分自身がよければ良い」ということの模範解答である。

爪が綺麗でなくたって私は普通に生きていけるのだろうが、心の持ちようや生きる楽しみが変わってくる。

きもいおじさんに怒られたって、指先を見てみれば私は強くなれるのだ。

 

 

カネを権威として見せびらかす行為が、何かみっともなく見えてしまうのはブランド至上主義の成金野郎を見ているとわかる。

彼らはブランドの真価…ブランドが生まれるまでの哲学や思想を汲み取って自身に投影しているようには見えない。

グッチの帽子を被り、シャネルの服を着て、マルジェラの香水をつけ、ロエベのバッグを持ってみろ。

何もそこに主義主張はないしそれはダサい。

 

ブランドには確かに価値があり、その値段がつくだけの理由があるのだが、

それをただ高価であるから、そしてその高価な物を持つことが自身の価値なのだ、と履き違えてしまうことは非常にみずほらしい。

 

もちろん自分にとって合理的であればカネの使い道はそれでいい。

自分をカネの権威で大きく見せることがその人にとって人生を円滑にするのであればいい。

それでいいのだが、キナ臭く感じられるのはカネの精神的使い方ではないからだと思う。

そうなってしまうだけの職業なのだな、と馬鹿にもされるだろう。

 

本当のお金持ちは恐らくブランド品を大量に身につけて精神の安定を得ることはない。

金持ちにケチが多い(無駄遣いがすくない)理由は、カネの等価としてのモノではなく、カネの存在自体を崇拝しているからだと思う。

 

もちろん私もブランドものは好きだ。

レディディオールは欲しくないけれど、バーキンはちょっと憧れる。多分人生で持つことはないけれど。

というか立派すぎて貰っても持てない。自分がジェーン・バーキン並みに美しくて素敵な女性に慣れた時は持ちたい。

 

2年くらい前、電車に乗っていて隣の人がとても綺麗なオレンジのバーキンを持っていたことを思い出した。

とてもとても電車で地下鉄の汚い空気にさらされるべき存在ではないのだが、見ていて幸せになれた。

 

ふと横を見てみると、持っていたのは五十代くらいの男性だった。

グレイヘアーがそれまでの人生経験をを美しく象徴していて、長く愛用していそうな革靴は綺麗に磨かれていた。

私は彼が自身の労働により取得し、使いこなしているバーキンと、それと一体になっている男性の主義主張を汲み取った。

それはとてもとても美しく、私もそうなれれば素敵だと感じた。

オレンジのエルメスと同化した彼の美しさを、存在を、今でも昨日のように思い出される。

 

正しい街

 

「真面目な人なんだね」

と言われて少し嬉しかった。

私は自分のことをちっとも、これぽちもメンヘラだと思っていない。

たぶん、

すこし、人よりも、恋愛に一生懸命なだけなのである。

すこし、人よりも、恋愛に真面目すぎるだけなのである。

 

そんな私が恋愛を真面目にやっていなかったことはもちろんあり、真面目になるまでに三年半くらいかかった。

気がつけばダラダラと書きたい時に書いているこのブログを書き続けるようになって三年半、私はいろいろと書き連ねてきたが

その三年半、私に恋人がいなかったことに気がついた。

 

三年半か、私にとってはとても長かった。貴重な二十代前半、彼氏との甘い思い出がないというのは、なんだか青春の一部としては物足りない気がする。

三年半前の私は恐ろしくメンタルをやられており、到底人と付き合える状態ではなかったのだが、今は、少しは大丈夫な私になれただろうか。(えーん、たぶんなれていない!)

 

 

そんなこんなで、三年半前に付き合った人のことを思い出さざるを得なかった。

 

先日2年ぶりくらいの友人と飲む機会があって、

その元恋人の近況について小耳に挟んだわけだが

彼女は長らくおらず、これからできる予定もなく、そして仕事漬けで忙しい日々を送っているとのことだった。

 

私はその時非常に悲しい思いをしてしまった。

せめて、もう少し相手が幸せになっていて欲しかった。

むしろ結婚しているとか、結婚秒読みだとか、私の事なんかなかったかのように突き抜けて幸せになっていて欲しかったのである。

なんだか申し訳ない気持ちになってしまって、少し頭を抱えた。

 

私はかなりその人に対してひどい仕打ちをして、

私は当時恐ろしくメンタルをやられていて

バイトと飲み三昧で大学にはまともに通っていなかった気がする。

私はかなりその人に対してひどい別れの告げ方をして、そのまま3年半が経過した。

 

その人に全くダメな点がなかったといえば記憶を美化しすぎな気がするけど

人との距離感が掴むのが苦手なだけで、悪い人ではなかったと思う。

 

私はその人と別れたことよりも、ひどい仕打ちをしてしまったことを割に長らく後悔していた。

人を傷つけてしまうくらいなら中途半端な気持ちで人と付き合うべきでないと思ったし、何より一連のことで自分が非常に傷ついているということに気がついたのだ。

 

やっぱり人を傷つけるのはよくないよなあ、どっちつかずな自分。と三年半。経過

 

 

うーん、いろいろ考えたけどでも

今回もやっぱりうまくはいかなかったな。

 

愛する人に愛されたいという単純な欲望を満たすのは非常に困難である。

人間に3大欲求と知性を与えた神様、マジ酷すぎる。

3大欲求が蔑ろにされるほど悩む人間、まじダルすぎる。

 

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She’s Leaving Home

 

ストレスフルな社会を今日も生き抜いている。

気がつけば大人になっていた、まだまだ親にも社会にも甘えていたいのに、気がついたら歳を食っていた。

無念、難しい、だんだんと責任を感じるようになってきた、責任という言葉が怖い、

もはや社会の誰からとの縁を切って田舎で羊を飼いながらのほほんとくらしてしまいたいと変な妄想をしてしまうほど。

 

疲れている、疲弊をしている。

私の中の若さや輝きといったものが、失われるというよりかは、損なわれているといった方が正しい。これらの言葉は明確に大別されるべきである。

私が少しずつ減っていくというよりかは、磨耗して使い古しの雑巾のようになっているかのように、思われるのである。

 

私はこの仕事を自分から選び取り、仕事やそれに付随する生活に満足をしているのだが、

それでも時に、

「果たして私はここまで損なわれるべきなのだろうか」

「本当にここまで無理をする必要はあるのだろうか」

と考える時がある。

 

馬車馬のように働き、相場に揉まれ、セクハラやモラハラに耐え、変に鍛えられたメンタルを自覚した頃にはそこにかつての純粋さはない。

綺麗に傷がつきたい、「傷つきました」「辛いです」とシンプルに言える純粋さが欲しい。

もはやそれすらも言葉にできないほど私の心臓は凝り固まってしまったようだ。

 

 

昨日、久しぶりに地元の幼馴染みと再会をした。

私を含めて四人、本当に小さい頃、4歳の頃から知り合いだからもはや実家のような安心感だし、この年になるとただ幸せそうに生きているのが確認できるだけで嬉しい。

 

そういえば最後にあったのは2年半前で、久しぶりに会話をすると2年半という月日が短いようでかなり長いものであると実感させられる。

全員長く付き合っている恋人がいて、それぞれ仕事を見つけ、代わり映えがあるようでないような人生を送っている。

そんな人生がとても、すごく羨ましく感じてしまったし、逆に私はこの二年半何をしていたのだろう、と当惑してしまった。

 

何も変化がなかったわけではない、彼女からしたらパワフルなキャリアウーマンなのだろうが、なにか、人間関係で育めたことがあるのかと考えたら、ない。

私の家庭は一度崩壊してしまったし、およそ彼氏と言えるものも存在していない。

 

何が違っているのだろうか、気がつけば全然違っていた。

何をしているのだろうか、一人地方都市で疲弊してしまっている自分よ。

明日のことで精一杯、

未来のことなど、昔から考えていない。

 

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透明少女

 

私の夏は不在だった、

彼は夏が来る前に去り、そして夏が終わった後にもう一度去った。

失われたというよりも、損なわれたと言ったほうが近い、

もともと存在しなかったようなものだから。

 

恋愛はしばしば私を困らせてきた、そのような記憶に思いを馳せる。

かつて私にとって恋愛は、とても人生の深いところまで介入して、私の生活をぐちゃぐちゃにして、眠れない夜を過ごさせたものであった。

つまり、恋人は、好きな人は、つまり圧倒的な他人は私が存在する上で、

私の存在意義を揺るがせる存在であったということであった。

 

「好きな人」がいる、というのは素晴らしいことだと思う。

かつて私がそうであったように、好きな人のために頑張ったりだとか、好きな人のことをその人がいない時も考えたりだとか、とても健気だと思う。

 

「健気」といえば聞こえはいいだろうが、結局は、

結局のところは他人がいようがいまいが、自分は自分でしかないだろうというのが最近の結論だ。

 

私の恋愛は夏が始まる前に終わり、そして夏が終わったと同時に再び、完全に終わってしまったのだが、その気持ちに封をしてしまったのは最終的には私だった。

 

興味がなくなってしまったのである、とても悲しいことに。

自分に興味がない人が、とてもつまらなく自分の人生にとって不要であるように考えられたのである。

何度も何日も考えたはずのあの日の思い出というのが、今となっては使い古しのタオルのようにもう水を吸いはしない。

 

 

恋愛の苦しみや楽しみが現在進行形であるというのは、実は幻であるのだと考えている。

現在進行系で「ああ好きだ」であると実感するのは、実は人々にとって少なく、困難な事なのではないか。

 

結局人は何度も好きな人のことを頭で繰り返し考えてしまう、

前頭葉が何度もドーパミンに侵されて、もはや好きな人を好きである事実に脳が酔いしれてしまう、

恋愛の本質が、自分による自分のための過去の記憶の繰り返しで、

大脳皮質のバグであることを理解してから、恋愛に対してパニックになることは、少なくなった気がする。

結局は恋愛は自分の問題である、ということが大問題である。

 

 

季節は変わりつつあり、

今目の前にまた恋愛が転がっているのだが、どう触れようか、そしてどう維持しようか悩んでいる最中である。

 

ただ、確かに言えることは、私は今目の前にある恋愛を楽しみたいということだ。

思い出などまだ存在していないからそんなことが言えるのかも知れないが、

相手にどのような過去があっただとか、これまで私がどうしてきただとか、そういうのは本当にどうでもいいような気がする。

 

ただ、目の前にある存在だけが確かだ。

今思っていることを素直に話したいし、素直に聞きたい。

今を作り上げ、その瞬間を純粋に「幸せ」だと実感したい。

 

 

9月、過ぎ去ってしまった季節と、「夏」は今年も不在だったことに思いを馳せながら。

 

もうすでに秋は始まっているのだと気がついた、8月31日

目が明くような晴れと爽やかな風、明らかな雲は圧倒的な秋だった。

 

サラバ、愛しき悲しみたちよ

 

いまShift+Cでコピペ出来なかったことに気がついた、くらいにはMacを触るのは久しぶりだなと思ったところだった。

 

Macを開くのは何か私がものを描こうとする時であるし、大抵それは何か心に触れる文学作品を読んだ後である。自分が小説家になったかのように自分の言葉で何か物語りたくなってしまうのだ。

何故だかこれは本にだけ起こる現象である。私は一番好きなコンテンツの媒体は映画であるのだが、音楽もそれなりに好きであるのだが、やはり文章がもつ強さか何かには勝てないと思う。

 

まあつまり何が言いたいかというと、私は最近何も本を読んでいなかったし、昔はよく読んでいたし、そして今さっき新しく読んでいた本を読み終えたということなのだ。

 

最近読んだ本…最近「老子*1を読んだが途中で止まっている、その少し前にはモームの「お菓子とビール」*2を読んだ。これもかなり時間がかかった、もはや本が面白くないというか自分の問題のような気がする。一度読み始めると最後まで読み切るのはあっという間で、1日4時間くらい本を読んだりしてしまうのだ。

 

そして昨日やっと川上未映子の「乳と卵」を読み終えた。実はかなり放置していた。中編の小説なので1日でどう考えても読み切れる量なのだが、時間がかかった。というのも実は私はこの作品の文体が苦手だった。

 

関西からやってきた豊胸をしたい母とまだ生理も乳のふくらみもままならない娘の話なのだが、ずうっと関西弁を垂れ流しているわけね、すごく読みづらかった。世間で評価されている割には下品というか、あまり美しくないなと思ったわけ。

 

うーん、と思いとどまり放置して早一二ヶ月、一気に読んでしまおうと台風でやることもないし。読んでみたのだけれど、読んでみればなかなか最後は落ち着いたというか、文章がすっと胸に飛び込んでくるようになった。

音読をしてみたんです、よく辛いことがあると私は思考を止めるために美しい文章を音読してみるのだけれど、そうすると娘の自語り、関西弁がなんだか私のことを言っているよな気がして。

 

そういえば昔、中学生の頃の話だけれど、私は人よりも生理が来るのが遅かった。胸がふくらみ始めるのも遅くて、高校生の時もブラジャーってしてなかったと思う。今も大きくなくてすみませんね。

それで、中学の時、隣のクラスの胸が大きい女の子を見て私は「気持ち悪い」とか「いやらしいな」という嫌悪感を持ったことを思い出した。

 

それは私は少女のままでいたい、という退廃的な羨望ではなかった。

間違いなく成長に対する、大人に対する汚らわしさだった。

修学旅行で「私の裸を見られる」ような破廉恥な行為も嫌だったし、ナプキンを貸し借りする友達も汚らわしかった。

 

なんだか今からすればわらけてくる。

何がわらけてくるかというと、人間になりきれてない人間が、人間であることを拒否している、断固として認知しません、と言うかのようだからだ。

 

人間の単純な欲求を満たすために、人は愛がないセックスをすれば良いと思うし、整形もすればいいと思うし、深夜にカップラーメンを食べればいいと思う。

それを批判する権利は誰にもない。

 

シンプルに認めてあげればいいのにな。

それでも、人間性…ヒトとしての意義を、欲望を否定する冷たさが社会には存在する、

まるでパンダの性行為をテレビで見たときのような気持ち悪さ、

少女のような無垢で残酷な拒絶をしてしまう、社会に対する生きづらさが確かにそこにはある。

 

それは私の中に時より生まれてしまう原始の記憶からくるのかも知れない。そう言ったことを思い出した。

*1:これはお客さんから借りた。老荘思想無為自然を説く説話だが大体は同じ話の繰り返しな気がする。仕事をしているのがアホらしくなってくる

*2:この時代には珍しいかも知れないが、すごいビッチが出てくる。でもビッチの言葉もそれなりに納得できる