わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

Fame

 

君に話したいことがたくさんあるんだ。

 

この世で一番大切なものはカネ、なのかも知れない。

時に命すら投げ打ってしまう人もいる人だ。

しかし カネ=幸せ ではないことは誰しもが考える話だろう。

 

もちろんあって困らないことだし、ないよりはあったほうがいいだろう。

富というものは人々を鼓舞し、時に争わせ、そして争いを円満に解決へと導くこともある。

 

私は生まれてこの方、とりわけ激しい貧困に襲われたことがなければ、カネへの強い執着を持ってきたわけではない。それはありがたいことだと思う。

 

有り余る富が欲しいわけではないが、カネがあると人生の選択肢が増えるし、何より余裕が持てる。

私は今お金持ちであるわけではないけれど、多少の贅沢をしても毎日が心許ない気持ちになることはないし、ある程度の貯蓄は私を幸せにしていると思う。

たとえば、スーパーで少し高い豆腐を買ったり、季節外れの少し高い野菜を買ったり、そういうことが私の中の余裕、贅沢なのだ。

 

例えば、今すぐに会社をリストラされたとしても、数ヶ月はなんとかなるだけの余裕がある。だから生きることに後ろめたさを感じて行き急ぐことはない。

 

もはやカネは存在するだけで、人の心の持ちようを変えることができるのだろう。

私はカネの存在意義が、精神性において発揮されることを提唱したい。

 

カネの使い道は人それぞれだけれど、その人にとって合理的である使い方であればそれはそれでいいのである。

例えば、人から見れば「無駄遣い」な私の経験を語ろうと思う。

 

私は去年の冬にパチンコを打ち、半日で三万円負けてしまったのだが、全くの後悔はない。

むしろ、パチンコをやった、という事実、そしてパチンコの楽しさやつまらなさ、

パチンコにハマる人の心理や行動など、そういった理解を経験できたことが何よりの私の価値だったからだ。

パチンコした後に食べた千円のラーメンは、あまりにも不味かった。

 

たとえカネを使って行った行為が無駄な結果として終わっても、精神的奥ゆかしさを私は手に入れることができたのだ。

 

 

あとは女の子にありがち、男性から理解されないことの一つとして身なりに関してがある。

カネの使い道として、身なりを綺麗にする、ということに価値を見出しているのは比較的女性が多いだろう。

私は月に1万円をかけてネイルを綺麗にしてもらっているし、月に1万円をかけて髪の毛を綺麗に切ってもらっている。

 

カネを精神的経験に使うことと対比的であるかも知れない。

「自分自身がよければ良い」ということの裏返しで、爪はまだ自分で見ることができたとしても、定期的に染めて綺麗な髪の毛の色や、まつげパーマ、肌のエステ等は自分で自覚するよりも他者からの評価に大きく偏ってしまう。

 

しかし同時に「自分自身がよければ良い」ということの模範解答である。

爪が綺麗でなくたって私は普通に生きていけるのだろうが、心の持ちようや生きる楽しみが変わってくる。

きもいおじさんに怒られたって、指先を見てみれば私は強くなれるのだ。

 

 

カネを権威として見せびらかす行為が、何かみっともなく見えてしまうのはブランド至上主義の成金野郎を見ているとわかる。

彼らはブランドの真価…ブランドが生まれるまでの哲学や思想を汲み取って自身に投影しているようには見えない。

グッチの帽子を被り、シャネルの服を着て、マルジェラの香水をつけ、ロエベのバッグを持ってみろ。

何もそこに主義主張はないしそれはダサい。

 

ブランドには確かに価値があり、その値段がつくだけの理由があるのだが、

それをただ高価であるから、そしてその高価な物を持つことが自身の価値なのだ、と履き違えてしまうことは非常にみずほらしい。

 

もちろん自分にとって合理的であればカネの使い道はそれでいい。

自分をカネの権威で大きく見せることがその人にとって人生を円滑にするのであればいい。

それでいいのだが、キナ臭く感じられるのはカネの精神的使い方ではないからだと思う。

そうなってしまうだけの職業なのだな、と馬鹿にもされるだろう。

 

本当のお金持ちは恐らくブランド品を大量に身につけて精神の安定を得ることはない。

金持ちにケチが多い(無駄遣いがすくない)理由は、カネの等価としてのモノではなく、カネの存在自体を崇拝しているからだと思う。

 

もちろん私もブランドものは好きだ。

レディディオールは欲しくないけれど、バーキンはちょっと憧れる。多分人生で持つことはないけれど。

というか立派すぎて貰っても持てない。自分がジェーン・バーキン並みに美しくて素敵な女性に慣れた時は持ちたい。

 

2年くらい前、電車に乗っていて隣の人がとても綺麗なオレンジのバーキンを持っていたことを思い出した。

とてもとても電車で地下鉄の汚い空気にさらされるべき存在ではないのだが、見ていて幸せになれた。

 

ふと横を見てみると、持っていたのは五十代くらいの男性だった。

グレイヘアーがそれまでの人生経験をを美しく象徴していて、長く愛用していそうな革靴は綺麗に磨かれていた。

私は彼が自身の労働により取得し、使いこなしているバーキンと、それと一体になっている男性の主義主張を汲み取った。

それはとてもとても美しく、私もそうなれれば素敵だと感じた。

オレンジのエルメスと同化した彼の美しさを、存在を、今でも昨日のように思い出される。