わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

愛について

 

「君が幸せそうにしている姿を見ているだけで、幸せだった。」

 

そう言われた。

 

完璧な時間が存在した。

空間が、時間が、止まっているかのようだった。

 

土曜日の夜9時前

酔い覚ましに入ったジャズバーで音楽を聴き、評論を読んだ。

空間を楽しんだ、週末の新宿、都会の喧騒の下、地下にあるジャズバーで。

 

音楽も文章も少し頭に入りづらかったけど、そうしていることが心地よかった。

重要なのは行動や理解ではなく、私がそこに存在するということだった。

私にとっては至極の幸せであるし、それを誰かに理解してもらう必要はない。

世界は私のものだけだ。

 

君の存在など無視して、一人黙々と。

 

やがて私は不安になり、少し君に声をかけてみた。

そして遂に君は沈黙を破り、私を眺めているだけで幸せだといった。

 

 

私はアイリッシュコーヒーを飲みながらジャズを聴いていた。

何も話せないし、何も話すべきではないと思った。

 

もし何か話してしまえば、この完璧な空間が壊れてしまいそうで

ただその時間には、空間には、言葉では表せない、親密さと濃密さがあった。

 

やがて二人は長い長い会話をし始めたのだけれど、

お互いの思考を探り合うような会話は興味深いよね。

 

できれば媚びたくないし、強がりたくもない。

私は今十分幸せであるし、これから一層幸せになる義務もない。

 

ただ、私には目の前に漠然とした絶望があるだけなのである。

それをどうすべきかは分からないし、どうにもしなくても良いかもしれない。

どうすることもできないかもしれない。

少なくとも、私以外の誰かが何かを「してあげるべき」ではない。

 

きっと君はそれを理解しているのだと思う。

 

 

だからこそ、私が「幸せ」である状態に介入しないことが素晴らしく

そしてその状態に寄り添うことが「幸せ」だと君は思うんだね。

 

誰かに何かをしてあげたい、というアガペーは自己犠牲によって成り立つと

今までは考えていた。

何か、役に立てる存在になるのは困難だ。

誰かのために自分をすり減らし、そして軽んじられ、磨耗していく

消費されゆくコンビニエンスでインスタントな恋愛。

 

しかし、私が存在していること

私が幸せそうにしていることが、誰かのためになるなんて

24年もの間考えもしなかったのである。

24年間、その事実から目を背けてきたのである。

 

幸せと幸せが補完しあっている、完璧な時間。

その体験が数日経っても頭から離れない。