神秘的な体験について、書いておこうと思う。
先日、教会に足を運んだ。
これまで生きてきた中で、多分初めてだったと思う。
うーん、結婚式とかのチャペルは教会じゃないよ、として。
単純に、人が祈りを捧げる場としてのカトリックの教会に初めて足を運んだ。
私は何か特定の宗教を信仰しているわけではない。
日本人は無宗教だというが、そういうわけでもない。
神様や宗教を意識していないだけである。
宗教と通過儀礼が文化っていう形で人々の生活に深く定着してしまっているだけ。
そうじゃなきゃ初詣にみんな行かないし、おせちも食べないでしょ。
いわゆる仏教思想が、ある程度日本人の価値観に根差しているのだが、
残念ながら私はそれ以上に宗教を信仰しなくてもいいかなあと思っている。
ただキリスト教とかイスラム教とか、そういうものに「熱心な人」はすごく関心がある。
私は、神様を信じているわけではないが、
神様を信じている人を、私は信じたいと思う。
キリスト教とかは、大体祈りの際に懺悔がセットになっているけれど、それって不思議である。
私なんかは、神社に行って無責任に何もせず、神様に「お願い!」って勝手に祈りを捧げているだけだから。とても暴力的である。
その点、「懺悔」ってすごく不思議だ。
これまでの罪を懺悔することで消滅させる。未来のことじゃなくて、すでに過去のことなのだ。
過去のことを神に認めてもらう=自分が認めるということはとても大切だけど、ある意味それも暴力的だ。
神様は無償の愛で私たちの罪を聞き入れて、絶対に許してくれることを私たちは知っているからだ。
結構無責任だし、なんでもやっていいということになるじゃないか。
だから宗教が幅を聞かせている社会でも犯罪は無くならないんだろうなーと思っているが、どうなんだろうか。
まあここまでは前置きで。
足を運んだのは「東京カテドラル聖マリア大聖堂」だ。
その日は東京都心でも大粒の雪が降るような日で、教会に向かうのにもタクシーでなんとか、って感じだった。
この教会に関心を持ったのも、宗教がきっかけというより、建築が先だった。
法政大学の旧校舎が大好きで、モダニズム建築に関心を持って、建築を見ることが趣味になったから。
日本を代表する建築家である丹下健三によって設計され、1964年に完成した。
丹下は新宿パークタワーとか、フジテレビとか、国連大学とかの建築家なんだけど
この教会は、同年代に作られた代々木第一体育館にすごく似ている。
教会に足を踏み入れた瞬間、私は神に触れることはこういうことなのかと感じた。
入り口から少ししてすぐに始まる巨大な空間。
コンクリートで固められた空間。
なかなか古い建物なんだけれど、古さを全く感じないよね。
なんと表現したらいいかわからないんだけど
コンクリートが、神が、なんとか宇宙っていう巨大な闇と孤独からまもってくれているんじゃないか、って感じた。
コンクリートって、実はとても冷たいけど、とても暖かいのだ。
石灰って自然由来のものだし、冷たさや無骨さのなかに温もりを感じる。
一方で、その冷たさが宗教に対する厳かさを反芻させているようにも感じられた。
とにかく、この空気感は立ち入らないと全くわからないと思う。
とても美しく、暖かく、恐ろしいのだ。
それが神に触れる体験と、重なる感情だと私は感じた。
教会の中にはシスターが4人くらいと、数人が祈りを捧げていた。
広い空間の中で、それぞれが孤独を保ちながらも祈りを捧げていた。
やがて司教が祭壇に立ち、祈りの言葉を口に出した。
コンクリートはよく音を響かせるので、何を言っているか正確には聞き取れなかったけれど。
私たちも見様見真似で、祈りを捧げてみた。
何を考えればいいかわからなかったので、とにかく黙想をしてみた。
不思議な感覚だった、黙想は最近の趣味だから、うまくできた。
でもなんだか、家での沈黙、脳死とは全く違う。
そわそわしない。
むしろ、そうしていることのほうが至極当然で、自然のように感じられたからだった。
多分10分くらいかなあ、祈りを捧げた。
なんだか私は泣きそうになってしまった。
辛い世の中で、誰もが孤独で、生きていくにはとてもしんどい。
誰もが不安と悩みを抱えて、それでもなんとか、立ち向かっていく世界。
私は、神と、大きな空と、宇宙を理解することで、人間を理解した。
抗えない存在を理解することで、それでもなんとか生きて行こうとする人間を理解したのだ。
誰かを愛し、許し、強く生きていくことを最近感じる機会が多い。
辛い世の中でも人を愛することは、とても美しい。