わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

ネトゲ廃人シュプレヒコール

 

リアルの世界は明日も

僕抜きに機能して回る

 

自由が丘の嘘みたいな嘘の街を思い出した

全てが張りぼてで、理想的に作られた街、

その中にあるトゥモローランドだけなぜか本物に見えた。

 

なぜだろう?

トゥモローランドが似合う大人にはなれていない。

自由が丘のピーコックは私が知らないところで大安売りの閉店セール。

 

求めれば与えられる、どうだっていい。

 

 

これはどうだっていいことであるし、私のことなんてほとんどがどうでもいいことなのだが、

私の周りのことだって、いってしまえばどうだっていいことなのだが

一つ思うことがあったので、残しておこうと思う。

 

 

昔から高等遊民になることが夢だった。

正確にいうと中学生くらいの時から。

自分が部活動や趣味に全力でやりがいを感じることができないタイプの人間と知ってからで

何もしていないということが、暇が最高に忙しいタイプの人間。

 

 

理想的なくらし、

 

それこそ、自由が丘のような張りぼての街で、歩いてモーニングを食べに行って

コーヒーを2杯飲んで、

小説に出てくる食べ物の味を頭の中で作ってみたり、

部屋を彩る新しいカーテンの色について一日中悩んだりする。

 

 

そんな高等遊民

どこからかお金が降ってきて、毎日映画をつまみに酒を飲むことが許される世界。

 

この度私は職を失ってしまい、「それが」「そのような生活が」

理想的ではないと知ってしまった。

 

理想的な生活の中に他人は存在していなかったが

実際、ほんとうの意味でひとりで生きていくというのは辛いのかもしれない。

私は本当、という漢字があまり好きではないから、ほんとうと書きたい。

さいごの「う」までしっかりと発音をして。

 

誰にも思い出されない、自分の価値を他人に見出されない。

もちろん自分は自分のために生きているのだが、

他者との交流でなにか触れ合うものが少しでもあればそれは美しいことなのかもしれない。

 

正直、働きたくない。

できれば昼まで寝ていたい。

多分また働き始めたら、すぐ仕事を辞めたくなるのだろうが、

ほんとうに仕事をやめてしまう前にこの感覚を味わって良かったと思う。

 

 

昔ゼミで企業の社会的責任というものを議論したことがあるが

社会参画の場を提供する、というのは一理あるかもしれない。

 

会社がなければ私はゴミの捨て方からワクチンの予約方法まで知らなかったかもしれない。

誰も私の体調を気遣って、いつでも駆けつけてくれる人なんていなかったと思う。

 

社会に守られているとは、こういうことなのかもしれない。

一人暮らしになって、仕事をせず、誰かが稼いだお金で今日も熱いシャワーを浴びる。

なんだかこの状況がもぞもぞしてたまらない。

 

高等遊民とは、誰かの汗と血の上に成り立つ存在。

「高等」さとは?どこに求められるのか。

 

 

世界でよくないことばかりが起こっている。

多くの血が、涙が流れている。

 

なんだかもぞもぞする、何か嫌な予感がする。

そんな中で私は今日も何もしない、それでいいのだろうか。