わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

スーパー、スーパーサッド

 

「幸せになってね」

わたしってそんなに幸せでなさそうに見えるのか、な。

わたしはとても幸せであるし、これ以上幸せになる必要なんてないのにな…

人はなんでも求めすぎなのね。

 

でもちょっぴり、嬉しかった。

好きな人の幸せを全力で願うことの美しさ、わたしの幸せを願ってくれる人がいるというだけでわたしは存在している価値があるのかもしれないと、思ってしまう。

 

そして私も誰かの幸せを願っているということ、幸せは相対的であるかもしれない、

がわたしの周りの愛するべき人にとっては絶対的であってほしいと思った。

 

 

 

 

「死のうと思ったことはあるの?」

と恋人に言われてちょっと傷ついた、

というのも完全に見透かされていたからである。

 

『学生時代はずっと思っていた、今考えるとアホらしいわね』

と、ちょっとだけ嘘をついた。

学生時代死にたいと思っていたことは本当である、でも、今も少し、かなり確実に思っている、少し嘘をついて申し訳ない気持ちになる。

 

時間が解決してくれると言ってくれた事象は私には全く永遠であった上、

日々はすり減り私は永遠に傷つき続けながらも生きている。

それでも生きていく他ないんだよ、と自分に言い聞かせては、気が遠くなりそうな将来に嫌気がさす。

それならば気軽に選べる死を選んでしまいたくなる。

 

恋人に

「辛いと思ったことは数あれど、死にたいと思ったことは一度もない」

と言われてちょっと傷ついた。

わたしは常に死にたかったから、ちょっと、切なくなった。寂しくなった、悲しくなった。

 

死を意識することは悪いことではないと個人的に思っている。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

死を理解することで、いつでも死ねるということを意識することで、生への責任感は少し、減った気がする。

 

でも、もし自分が好きな人が、死にたいだなんて言っていたらだいぶ悲しくなる。

 

わたしという世界でその人を包んでしまいたいから、でもそれはきっと愚かな幻想なのであろうと思う。

 

だからとっても申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。

わたしは誰のために生きているのではない、わたしはわたしのために生き、そして死にゆく運命なのであるが…。