最近、自分が激しく幼児退行しているように感じてしまっていた。
何か可愛いキャラクターが好きになったり(それはつば九郎やちいかわのような)、
脳筋ゴリゴリ物理否定の映画をたくさん見ちゃったり(それはワイルドスピードのような)、
社会的制約を離れて遊んでみたり(それはハレの日ような)、
シンプルに頑張っている人を応援しちゃったり(それは野球観戦のような)。
朝もオレンジレンジの上海ハニー聴いてたしな。オレンジレンジいいですよ、ほんとうに。夏だなー。昔はなんだか、偏屈な頭でこねくり回して、バカにしてたんですけどねちょっと。
しかし、どれも全く悪いことではないので、幼児退行=人間としての衰退 ではない。
し、むしろ前進している気がする。
全力で突き抜けてシンプルなものを好きになると言うことは、一見自分が何か複雑なものから単純なものになってしまったかのように見えるが、それは違っていた。
学生の頃は、何か多面的であることや複雑であること、何かの含みを持っていることこそが美だと考えていたし、
それを理解できる自分がかっこいいと思っていた。
そこに美を感じる自分はまだいるが、かっこいいかカッコよくないかで好きになるのはいわゆる大二病までだ。
むしろ、何か一直線に突き抜けている清々しさ、に対して美を感じるようになったのである。
毎日を全力で頑張る、結果を残さなくてはいけない野球選手が、一瞬のバッターボックスを信じ続けることの美。
それは瞬間を、永遠に変えてしまうような魔力がある。
私はそういったものを信じたいと感じるようになった。
幼児退行と表現したのは、他に表現が見つからなかったから。
自分で言葉を作るのならば、幼児前進していると言いたい。
わかりやすいものを、全力で楽しめる幼児の頃に戻ったのではなくて、むしろ前進して再度楽しめるようになったのだと思う。
と言うのも、先日祖父の13回忌があり、大阪の実家に帰ることになった。
従兄弟の子に4歳と1歳の子がいて、3日間共に過ごした。
4歳の頃になると、人には自我が生まれてくるから、私はずっと子供と遊んでいたのだが、本当に楽しかった。
一緒に走りまわってみたり、お人形遊びをしてみたり。
小さい子とここまで一緒に過ごしたのは初めてだったので、新鮮だったのだが、非常に楽しかった。
自分が小さい頃のことを思い出したし、彼女がどのような大人になるのだろうか、と未来のことに想いを馳せては感慨深い気持ちにもなった。
充実していたな、と実感する日々だったのだが、帰り際に母親である従兄弟に声をかけられてハッとした。
「本当に遊んでくれてありがとうねー気を遣わせちゃってごめんね」
とのことだったのだ。
違和感を感じた。私は「遊んであげている」のではなく「遊んでもらった」気持ちでいっぱいだったからだ。
私自身が楽しんで、幼児と遊んでいたので、むしろ得したきぶんにまでなっていたのた。
私は今まで子供なんて全然好きじゃなかったし、自分が子供を持つことなんて全く想像もできなかった。
もちろん他人の子供と数日間過ごしただけで、子供をもったきぶんになってはいけないのだろうが、
親密に、まじまじと、自分の状況に置き換えてしまう体験は初めてであった。
全力で子供と駆け回り、風呂に入り、10時には寝床に着く生活も、悪くないなと思ってしまった、
そこにある何か圧倒的な安心感、言葉にできない幸福…
…深夜に目が覚めて隣を見ると乳幼児が寝ている姿を見て私は実感してしまったのであった。
それは確実に、幸福の形だった。
男は気持ちが悪いから、もはや処女受胎の如く、一人で子供をもうけて育ててみたい。
昔見た「ガープの世界」という映画を思い出した。
肉欲主義を否定し、支配的家父長制から逃れた女性の話、
それもそれでありだなあ、とふわふわと考えている、私は24歳である。