わたしの内出血

頼むから静かにしてくれ

完全な夜の作り方

 

 

午前3時。

実はこんな夜中まで平常心を持って起きていることは久しぶりだったりする。

 

いや、こんな時間まで起きている事がもはや平常ではない気はするんだけどね。

もともと睡眠サイクルがバグっている身としてはかなりまともな生活を送っていたんだよね最近は。

 

なにか考え事をしだすと眠れない性格である。

でも実際は何を考えているのか、正直自分でもわからなかったりする。

 

頭の端々から、何かよくわからないけれど、何か大切そうなことが浮かんできちゃって、いろいろ考えてしまう。

 

非常に不健康で生産性のない夜なんだけど、実はそういうのも好きだったりする。

 

そういう時は大抵、何かよくわからない邦ロックを流して、ダイニングの床に寝そべる。

そして、天井を見つめる。

 

天井のシミだとか、ホコリだとか、そういうのを見ていると落ち着く。

そうやって流れてくる邦ロックの反抗的な歌詞を口ずさんで見ると、気づけば1時間くらい経過しているものだった。

 

何か、天井を見つめる行為は思考をまっさらにする手段のように感じられる。

それは一種の瞑想のような感じ。

大学二年生の冬とか、とても寒い床に寝そべり、よく涙を流しながら午前3時の天井を見つめていた。

 

天井を見つめる事が趣味です、って数年前から言おうと思っているのに、よくわすれちゃうんだよなあ。

 

天井ってみんな気が付かないけれど、意外と見つめてみると面白いんだ。

特に古びたカフェとかシーシャ屋さんのトイレの天井。

大抵落書きがされているんだけど、みんな便器の上にわざわざ登って書いているんだろうか?

 

あとはこの前ジンギスカン屋さんに行った時の天井は、油汚れで茶色く変色していた。(これはシーシャ屋さんもだけど)

誰しもが天井に支えられて生きているのに、よくじっくり見ないと、いけないんだよなあっていつも思っている。

 

 

思考をまっさらにする手立ては他にもある。

今日は9時過ぎからずっと読書をしていたんだけど、(私は読書は隙間時間とかにできなくて、一度読むと没頭して読んでしまう。)1時間ほど音読をしてみた。

 

すると面白い事に、すべて音読する声が庵野秀明みたいなつまらない、抑揚なしの声になっちゃったんだよね。

朗読っていうより、音読という方が近いと思う。

堀越二郎です」

のそのままの声。

 

村上春樹を読んでいたんだけど、まあ庵野秀明もそんな感じの文体の喋り方をする。

究極的に抑揚がないってことは、文字をそのまま言語化しているみたいで、つまりそれは人間的ではない。だけれど一番文学に忠実な読み方な気がする。

 

音読をしていると、黙読している時よりも余計なことを考えなくて済む。

資格のことだとか、卒論のことだとか、この前嗅いだお香の香りだとか、つまらない世間話だとか、そういったことは全く思い出せなくなる。

 

眠る事が苦手な私は、つまり瞑想も苦手なのだ。

黙想だとかそういうのも苦手だった、沈黙に耐えられなかった。

 

だから、天井を眺めながら呟いてみたり、文字を追いかけながら蓄音器の物真似をしてみたり、そういう事がとても落ち着く。

こういった風に脈絡もない文章をつらつらと書いてみる。

 

正直、人と話す事が好きな私は、つまりそういうことなのかもしれない。

 

人と話す事が落ち着くということは、こういうくだらない思考もクソもない「何か」をたらすために

私は外界に向かって音読し続けているのかもしれない。

 

どちらにせよ、私はとても平常である。

夜と、冬と、天井と一体になっている。

 

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美しい

 

昔、遠い未来の愛すべき人に向かって、愛していると叫んだことがある。

誰か愛しい人に出会ったときに、なぜもっと昔から出会えなかったのかと後悔したからであった。

 

待ち焦がれてる人よ

遠く離れた旅人よ

ちらばる恋人たちよ

寒さにふるえる君も

 

ふと、普遍的な美しいものを探す為に生きているのだと思った。

 

普遍的ってなんだろう、私は普遍的という言葉がとても好きでよく使うんだけど、それは遍くこの世に共有され、その例外がないものを言う。

 

人というのは付かず離れず、ばらばらだから、世界に共通した感覚というのがあるのか、疑問ではある。

だからこそ戦争は無くならないし、人は傷つくし

だからこそ違うものが生まれて、新たな文化が紡がれていく。

 

普遍的なものがある、というのはある意味、一つに統合しようとする暴力性を持っているように感じられる。

 

しかし、普遍的な美とは、なんだろうか。

 

私にとっての美の象徴は、「目」なのだが、極端過ぎるかもしれない。私は好きで好きでたまらないんだけど、広く知れ渡る美しさというよりもフェティシズムに近い。

 

遍く、人類が、なんの先入観も文化観も持たずに、ただただ恍惚する何か、そんなもの。

 

ミケランジェロの彫刻が

オリュンポスの神殿が

バッハの旋律が

リルケの詩が

プルーストの物語が

 

それらは何かを、人類を超越した美しいものに感じられる。

圧倒的な美しさの前では、人は屈服する意外になくて、ただただ無力に感じられる。

 

普遍的な美とは、究極的に言えばシンプルさと近いのだという。

コルビュジェの建築であったり、無印の雑貨などを想像して欲しい。

あれらは、人類にとって必要な要素を保ちつつも、究極的にシンプルに、作りあげたものだ。

シンプルというものは、意味がないように見えて、意味しか存在しないのだが、それらが世界に溶け込みすぎて一見なんでもないように見える。

 

例えばハイブランドのマルジェラの話をしてみようと思う。

マルジェラには、洋服のタグをつけるときに裏側から見える四角の縫い目が施されている。

私は最初マルジェラの洋服を見たときに「なんだこれ」と思ったんだけれど、このタグにはシンプルさと匿名性という意味が込められている。

 

この匿名性とは、「ブランド名やロゴを排したときに現れる、真に美しい、そして良質なものとは何か」ということだった。

つまり、ブランドや名前というのは偶像で、ラベリングである。

ブランド創設者の意図を理解しなければ全く身につけている意味がないと昔書いた。

 

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シンプルさの中に、隠された情熱にこそ、美が存在する。

 

 

少し前に四国に行った時の話をしようと思う。

香川県の直島に存在する「地中美術館」に行ったときのことだ。

直島全体は、アートサイトになっていて、多くの作品や建築があるのだが、安藤忠雄の建築が見どころで、地中美術館もその一つだ。

 

わたしは、美術館というか、なにか建物に入って初めて「恐ろしい」と感じた。

なにか、遠い昔の神か、遠い未来の神が作り出した異形の存在のように感じられたからだった。

 

地中美術館というのは、その名の通り、地中に存在している。

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これらの三角であったり、長方形の「穴」こそ美術館の天井に値するのだが、その建築方法がすごい。

 

まず直島に山が存在していて、その山を一度切り開く。

その中に筒状のコンクリートの建物(壁というべきか)を作る。その中に美術品を配置する部屋を作る。

そして、建物が完成した後、又もう一度山を再建して美術館を取り囲んでいるのだ。

 

完全に地中に埋まった存在。

私は足を踏み入れたときに、その大地の温もりを感じた。

その一方で、コンクリートの冷たさを感じ、空に広がる大きな曇天に恐れ慄いた。

 

そのとき、私は完全に大地に包み込まれていることを理解した。地球というのは暖かく、人間が抗おうとしてもどうにもならない。こうやって人類の英知である建築技術を用いて、なんとか建物で私は守られているのだと、そう感じた*1

そして、涙が出るほど美しいと感じたのだった。

 

圧倒的な生命の恐ろしさの中にこそ、美が存在する。

 

 

これが私の美学。

普遍的な日が存在するかはわからないが、私が微睡ながら、心底恍惚してしまうもの。

 

 

そして、私の美学を象徴づける大きな出来事が起こった。

それはよくある話だ。

行きずりの男と話をし、飯を食い、そしてセックスをした。

私は長らく生まれてから性的なものに対してひどく抵抗があって、それらをおおっ広げにすることは馬鹿で恥ずかしくて、知的な行為ではないと考えていたからだ。

 

しかし、その日はなぜか全てがうまくいくように感じられた。

まるで何千年も前から、私という存在がこういう形で人と抱き合い、一つになることを望んでいたように、それが正しいことのように感じられたからだった。

 

次の日二人でお昼を食べに出掛けたときに、

高円寺の暖かな日差しに照らされた

彼の生まれながらにして茶色い瞳

まつ毛、巻き毛

その透明感を目にしたときに私はもう、心を飲み込まれてしまった。

 

そして、もう二度とこの素晴らしい光景を目の当たりにできないのだろう、という切なさに襲われ、私は涙してしまった。

 

これが恋というのか私には全くわからない。違うのかもしれない。

ずっとずっと昔から、これを探していた。

ただ、圧倒的な美しさの前で、私は何もできなくなってしまったのだった。

 

 

子供の頃みた心象が

未だこびりついて離れないの

 

 

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*1:私が大好きなベルトルッチの「シェルタリングスカイ」もそんな感じ。

Common People

 
 
I want to live like common people,
I want to do whatever common people do,
I want to sleep with common people,
I want to sleep with common people,
Like you.
 
普通の人みたいに暮らしたい
普通の人みたいに何かがしてみたいんだよね
普通の人に抱かれたい
詰まるところ、普通の人と寝たいってわけよ、貴方みたいな。

 

 

年の瀬ですね。

ガキ使が始まるまで今年の振り返りをしてみる、18時ごろ。

 

タイピングは遅い方じゃないんだけど、

いつもいろいろ考えながら書いているので1時間くらいかかるけど大丈夫かな。

18時半からなんだけどなあ。多分終わりませんね〜

 

 

今年の一年間何してたかなって考えてみたけど、すごく変化が多い年だった。

別に特別な何処かに出かけたり、例えば海外旅行であったりだとか

新しい友達ができてすごく仲を深めたとかそういうのじゃない。

何か新しい事はわりと私は怖い方なので。

 

どちらかというと、何度も此処で触れてきたけど

内なる世界へと沈み込んでいき、自分らしさに邂逅した気がする。

それは「新しい自分」とかいう胡散臭いものじゃなくて、当たり前の自分らしさを再確認することのような気がする。

 

 

6月までにかけて

就職活動をスタートさせるという事で、燻っていた年明けごろ。

まあ去年までの自分と同じでくだらないこと、どうにもならないことで延々に語り散らしていた。

どこへでも行けるのに、行かなかった。

等身大の幸せを愛せないのに、所謂妥当な道を選んできた。

 

今は、今だ、今を生きなきゃいけないのに

いっそ水星にでも旅に出たいなと、ぼんやり中学の頃から考えている。

 

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とにかく何者かになりたかった。

これは自分でもよく理解していることなのだが、今年の中盤に入るまで生きていることがとにかく苦痛でしかなかった。

何か特別なものになって、特別生きる理由を得て、誰かに讃えられながら息をしていたい。

そんな謎の選民思想に取り憑かれた数年間だった。

完璧な人生でなければ意味がないし、完璧な人生でなければ悲しみなんて辛いだけ。

 

でも何かになるのはとても怖いことだった。

だから妥当な人生を選んでいた。

いっそ一思いに死んでしまった方が楽だとずっと本気で考えていたんだよ。

 

だからこそ、ある日突然ベリーショートに髪を揃えてみたり

あえて風呂に一週間入らなかったり

遠く離れたフランスの空に憧れていたのだ。

 

この辺の雑記は正直全部書いていることが一緒なんだよね

こんなつまらないことで延々と悩めるなんてかなり高級だけど

それだけ人生を燃やして悩んでいたのも事実なんだよね。

 

 

 

就活終了後あたり

ふとした瞬間、人生の考え方が変わることってあるんだって気づいたんだよね。

人生が、人が、何か突然変わることなんてないんだけど、この頃の出来事が私の人生観を大きく変えた。

一つ一つ話すとすごく長くなるんだけど

 

例えば

・コロナでどこもいけなくなった

・就活40社落ちた

・母の暴走再びとDV事件

・ゼミの先生からのハラスメント

・Tinder男に騙された

・既婚者に付き纏われた

 

とかね。

どれもこれもまるで他人から何かされた被害者みたいに書き連ねてるけど

今考えれば全部自分で招いたことなんだ。

例えば就活なんて一番コロナの影響を受けたけど、コロナがなくてもうまくいかなかったと思う。

人生に絶望していた私は働く理由も理想もなかったからだ。

40社落ちてやっと「生きねば」と察したから、良かったものである。

 

そして、究極の人権侵害にあった事で、自分を大切にする事や自分の周りの人を大切にすることを実感した。

幸せというステレオタイプに縛られるよりも、自分なりの幸せのあり方を見つけるほうがよっぽどいい。

 

幸せになる事はとても難しい。

人生はとても長い。

人生には取り返しのつかないことがたくさんある。

何が正解かなんて、私には到底わからない。

 

これまで「正解」ばかり追い求めてきた事で、世間との相違に苦しんできた。

模範解答と照らし合わせて、人生を自己採点する作業は、人を苦しめるから。

それを、「辛い」と嘆くのは、とても惨めなことだから。

 

でも、新しく私の人生が切り開けていくのを感じている。

絶対に幸せになってやる

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これだけ辛いことがあって、もう散々だ、辛酸にもほどがあると思ってたんだけど

ありがたいことにコロナによる自宅軟禁は良い副作用をもたらしてくれた。

 

例えば 

村上春樹を読んだこと

・ワイスピを全部見たこと 

・幸福論について考えたこと

三浦春馬の死に想いを寄せたこと

・毎日規則正しい生活をしたこと

・今いる友達に感謝をしたこと

 

新しい事は何もない。

ただ転がっている日常を見つめ直しただけだと思う。

 

特に友達に関しては大きな価値観の転換が起こった。

私は今まで友達なんかほとんどいないと思っていた。

中学時代の時に友達が居なすぎて、高校では自分の趣味を隠して生きて

ステレオタイプに縛られすぎた人生を送ってきたからだ。

 

でも友達が居ないなんてそんなことなくて、たくさん周りにいることを実感したのだ。

人は必ず孤独だし、一つにはなれないけれど

それでも会えない世相の中で会おうとしてくれる人たちをいつまでも愛していきたいと思った。

 

 

来年に向けて

死ぬほど一年あっという間だったけど、これだけ思い出すことがある。

かなり成長したんだなあと思っている。

 

価値観の転換が起きてからは、いろんな映画や本を読んで、そこからいろいろ考えてみたり

人生の生き方がとても楽になったり、癇癪を起こしたりすることも少なくなったと思う。

 

最近は資格の勉強をしたり卒論を書いたりしているけど、来年はどうして行こう。

就職をすることもそうだけど、いろいろあって人生初の体験をする予定なので

たくさんそれについても考えを残して行こうと思う。

 

私はもちろん特別な人ではない。

普通の人だ

少なくとも普通の人で普通の人生を送っていて、とりわけ特筆することなんてない。

お金持ちではなければ貧乏人でもない。

特別かわいくもなければ特別ブサイクなわけでもない。

何も尊大で偉大なことなんてないし、そんな誰かも私には存在しない。

 

 

まあそれって、普通のことなんだけど、そんな普通のことに気がついてよかったな。

 

もう私の口から、16歳の時に考えていたようなどうにもならないつまらないどうでもいいこと

どうでもいいけど、どうでもよくない事が口からあんまり出なくなっちゃうのは悲しいな。

10代に戻りたい、ある種の切なさを含んだ願望っていうのが最近わかり始めている。

 

私はそんな切ない思いも、思い出もすぐ忘れてしまうから、

たまにこうして振り返ってみたり、書いてみたりみてみたりすることが必要だ。

だからこれからもそうしようと思う。

 

 

 

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サンタクロースにお願い

 

今年も12月が終わろうとしている。

 

ハロウィンが終わったら、世間は一気にクリスマスモードで

クリスマスはケーキを食べたり、イルミネーションをみたり

すごく西洋的なことをするのに、25日が終わった瞬間お正月モードになるのはなんだか面白い。

 

この年末のバタバタ感が実は好きだ。

人っていうのは何か考えてたりしないと、あっという間に過ぎ去っていく時間の流れに流されちゃう。

だから、バタバタしているとすごく生きているという感じがするのだ。

 

それこそ、クリスマスなんて行事そのもの自体はなんでもない。

そもそもイエスキリストの生誕を祝う日(誕生日ではない)であって、極東の日本が一周回って大切な人と過ごす日として捉えているのはなんだか面白い。

 

サンタクロースの伝説もキリスト教文化に裏打ちされたものであるけど、真っ赤なお鼻のトナカイさんをつれた赤いオヤジというステレオタイプも国によりけりらしい。

 

どこかの外資系企業がビジネス戦略によって植え付けたのに違いないと思っているんだけど、やっぱりこの寒いけれどポカポカしている景気の良い雰囲気は嫌いになれない。

 

今年はめちゃめちゃに24日までバイトしてた。非常に疲れたけど、いろんなお客さんとお話しして、楽しかったな。

夜は家でまったりホットワインを飲んで、25日にはクリスマスマーケットに行った。

混雑が怖かったので昼飲みで済ませた、その為夜には家に帰っていた。

 

そうしてその後、年末番組を見たりしていたんだけど、今年のクリスマスは今までで一番まったりしていたんじゃないかなあと思う。

去年はバイト先の人と朝までスターウォーズについて語ってたし、その前の年は滝に打たれてた。

三年前は彼氏と過ごしたけど、気づけばなんだかんだで充実した二日間を謳歌していたのだ。

 

私は天邪鬼なので、一時期クリスマスを憎んだりもしたけど、なんだかんだで好きなことを認めます。

 

まあ、私は今彼氏がいないので残念ながらサンタさんは来なかったよ。

実はいたりするのかな、なんて朝ベッドの横を見てみたけどダメだったね。

 

子供はいつまでサンタさんがいると信じているんだろう。

私は小学校三年生までだった。

クラスの友達が「本当はサンタさんはお父さんとお母さんなんだ」って言いふらしたから、その日は大慌てでいろんなタンスを開けてプレゼントを探したものだった。

 

子供が願うものは決まっておもちゃだけど、うちの弟は「カメレオンが欲しい!」とねだって黙らなかったので、母は大変だったと思う。

 

最近「夢ってなんだろう」と考えることがあったんだけど、そう考えたら子供って突拍子もないことを願ったりするように、可能性があるんだと感じた。

 

カメレオンが欲しいしかり、ものじゃなくても願うならば、将来の夢がサッカー選手であってもいい。

何かを願うということは、願いが叶えられれば幸せになれるという自信に裏打ちされている。そこには計り知れぬ希望が詰まっている。

まさか将来の夢がお嫁さんな女の子なんて、いない。(そもそも論で、フェミから攻撃されそうね)

 

でも実際にサッカー選手になれる人なんか本当に一握りなわけで、夢の持つ力が大きければ儚さというのも底知れないのだ。

 

私の幼稚園の頃の夢は科学者というか、何かを生み出す発明家だったんだけど、なんで憧れていたのかは忘れちゃった。なかなか女の子では珍しいと思うんだけど、圧倒的に理数系科目がダメで気づいたらそのルートは手札から消えてた。

 

何か凄いものになりたいという、誇大妄想と承認欲求は大学4年生の就職活動で否定される、それはもはや通過儀礼だ。

 

はて、就職先が決まって卒業が確定している身分の私の夢ってなんだろうか。

 

心当たりがあるのは、お給料を貯めて、中古でいいからMINIかワーゲンのクーペを買うことだ。

しかし、お金で買えるものなんてつまらない。

お金さえあれば、手に入るのだ。

何かを買うことを目標にするのはいいけれど、とんでもない人生の勘違いを起こす原因になる気がするのだ。

 

もっと、人生における、本質的な夢ってなんだろうか。

このまま漠然と進んでいく時間と、将来において、自分がどう暮らして、どうあるのか、想像ができない。

 

キラキラとした、何か、夢が欲しい。

 

もしサンタクロースがいるのなら、夢が欲しいって言いたいな。

 

クリスマス

星の降る夜にでも

叶わぬ夢だってあるだろう

小さい頃はおもちゃをねだったけど

今願うのは お金じゃ買えないもので困るよ 

 

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コロナ禍の「パークハイアット東京」滞在記②

 

滞在から一ヶ月経とうとしてるとかまじ??

 

更新できてなさすぎて、備忘録の備忘録みたいになってるけど大丈夫かな、大丈夫か。

 

 

前回記事はこちら

ka7788.hatenablog.com

 

 

 

 

おやすみしたあと、実はうまく眠れなかった。

景気付けに白ワインを一本開けたからか、わからないけれど何回か目が覚めた。

 

11月後半の夜明けはもうかなり遅い時間帯になっている。

白むか白まないか、そんな空を眺めながらソファでうたた寝してみたり、

もう一度ベッドに戻ってみたり、いろいろしてみた。

 

何を考えてたんだろう。

多分、すごく充足したホテルステイで、これ以上幸せなことがあるのか心配になってたと思う。

若くして成功を手に入れたマコーレー・カルキンのように

若くして頂点を迎えてしまった初恋の輝きとか

今こうして過ごしている瞬間さえ、いつか失われてしまう大切なものなのであるように思えてしまって、とても切なかった気がする。

 

あとは、これは実際の話なんだけど、夜景っていうのは冬の日没後すぐが綺麗だと思う。

電通のおっさんだって、よく考えれば流石に終電前には帰っているものである。

いや、帰ってて欲しいな。

とやかく、都会の夜明けは、意外と暗いということがわかったのだ。

 

 

おはようやさん

微睡から覚めたのは確か6:40とかだったと思う。

 

本当は日の出の瞬間、太陽の光に包まれる大都会新宿を眺めたかったんだけど

流石に寝不足すぎて起きたら日が昇っていた。

 

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この日は若干曇っていたから、日の出の瞬間自体はあまり綺麗じゃなかったのかも。

これは、備え付けのネスプレッソを飲んでる様子。

これがさー、初めて使ったんだけど本当にちょうどいいサイズなんだよね!

いい感じに冷めて飲みやすくなるし、目覚めの一杯になった。

 

 

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パークハイアット東京のアメニティはえぐい事は前回も書いた。

飲み物に関しては、コーヒーマシンがあるのはもちろん、日本茶デカフェティー等何でもおいてある。

しかもベッドメイクの時間には全部補充されているのだ。

 

 

 

ワークアウト

友達が「カフェインを入れてから運動するとマジ痩せる!」とか変なこと言い出す。

そう、コーヒーを飲んだ後、ガチ運動タイムだったのだ、思い出した。

 

朝ごはんを食べる前に空腹のままコーヒーを注入して、出かけたのはもちろん二本目のタワーの最上階にあるプール!

 

前の日にちゃぷちゃぷしにきたけど、化粧を落としたくなかった為リベンジ。

本当にずっと泳いでるムキムキのおじさんとかしかいないガチな雰囲気なので本腰を入れて、150メートルくらい泳いだ。

 

昔水泳をならっていたけど、もう10年以上前の話なので、クロールを50メートル泳ぐだけでもかなりキツかった…。毎回息が切れた…。老化だ。

夏に宮古島に行った時も少しシュノーケリングや潜水をしただけでヘトヘトだったので、まじで鍛えようと思った。

(けどその後もちろんなにもしてない!)

 

ガチ水泳のあとは、下の階のスパへ。

これも昨日長時間入浴したりサウナ利用したりできなかったので1時間近くかけて楽しんだ。

とにかくスパがすげえんだ、本当に。どんなホテルも温泉も勝てないくらい。

 

スパにも備え付けのシャンプーやスキンケア類があるんだけど、これももれなく全てイソップ。

一本4000円くらいするんだけどなあ…。残念ながら化粧品が全て私の肌に合わず、使えなかったのが本当にショック…。

 

 

 

 

「ジランドール」での朝ごはん

 GOTOキャンペーンを使って何箇所か旅行に行ったけど、どの旅行でもホテルステイで一番楽しみにしていたのが朝ごはん!

朝ごはんのクオリティによって本当に1日の滑り出しも満足度も変わると思う。

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写真が有名なジランドール。

 

実は、宿泊前日まで、ジランドールでの朝ごはんは計画されていなかった。

その代わりにお部屋まで料理を持ってきてくれるはずだったんだけど、

コロナ対策の面で各所ホテルでビュッフェスタイルが中止されている為だ。

 

やっぱり朝はビュッフェに限るのでとても残念だったんだけど、なんと規制緩和でジランドールでのビュッフェが解放された日だった。

本当にラッキー!嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

 

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こちらが朝食。

・キヌアサラダ

・グリーンサラダ

・ハム

・サーモンのソテー

ギリシアヨーグルト

・ベーコンとソーセージ

・シリアル

・パン

・シャインマスカットデニッシュ

 

などなど。

季節によっても変わるみたいだけどこんな感じ。

これらがビュッフェで食べ放題。

 

あとはフレッシュジュースとホットドリンクのチョイス。

それに加えてメインの卵料理をオーダーできる。

オムレツとスクランブルエッグとエッグベネディクトあたりから選べる。

 

せっかくなので、名物のスモークサーモンエッグベネディクトとオムレツにしてみた。

オムレツは具を選んでオーダーメイドできるんだけど、中身の具も好きにカスタマイズできるのがいいんだ〜。

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シェアしたからちょうど二個でよかった!

全体的に、お肉よりもサーモンの方が美味しかったなあ。

何度もお代わりしちゃって、朝から1日分の食事を済ませるレベルで大量に食べた…。

死ぬかと思ったなあ

 

 

人生で最強の二度寝

 

なんとチェックアウトが13時という、なんともありがたいプランだったので

もちろん二度寝した。

 

朝ごはんを食べ終わったのが多分10時前だったと思うんだけど、部屋に戻って爆睡。

寝不足アンド運動後アンド満腹後だったから仕方がないね。

 

起きたら12時すぎでした。わろた。

大急ぎで荷物をまとめて、化粧をした。

 

洗面台も大きくて二人すわっても全然余裕。

急ぎつつもやっぱり化粧だけは手を抜けない。

普段から自分の顔と睨めっこしているから、最低でも15分はかかるんだけど

友達と化粧品を交換しながら語るのがやっぱり大好きだ〜

 

かわいくなりたいとか、目頭の形の話とか、しょーもない彼氏の話とか、昔の失態とか、どうにもならないことを語るのが女の子の特権だと思う。

女の子って本当に楽しい、CANMAKE TOKYO。

 

 

 

チェックアウト、そして下界へ

身支度が終わってついにチェックアウト。

深夜にうだうだ考えていたことや切なさが一気に押し寄せてきた。

さみしい、こんなに幸せすぎて、辛い。

 

ホテル自体が高層階にあるので、高層階でチェックアウトを済ませて、そして高速エレベーターで来た道を戻った。

 

ただただ、街よりも時間がゆっくりと流れ、全てが正しく進んでいく

都会の異世界、近くて遠い世界

 

前回私はこのようにパークハイアット東京を表現したけど、まさにこの通りだった。

ホテル全体がぬくもりと丁寧さと礼儀正しさで包まれた完璧な空間。

この摩天楼は、地上とはかけ離れた桃源郷でしかなかった。

 

だから地上についた瞬間、別世界であることを強く実感したのだ。

垂直真下の世界には、ただただ新宿の汚い風がどこからともなく吹いてきて、

11月の寒さのもとに私たちは曝されてしまった。

 

絨毯が敷かれたホテル内では聞こえなかった、かかとのヒールが鳴るのを、今でも虚しい音として思い出すことができる。

 

 

おわりに、回想録として

 

まず第一に、ホテルに感謝しても感謝しきれない。

ずっと憧れていたけど、GOTOがなければまず宿泊する事はなかったと思う。

 

大体、フランス旅行にどうしても行きたくて半年以上かけて鬼のようにバイトをして

ひもじい生活をして暮らしてきた中のコロナ禍と、就活疲れ。

外の世界に何も求める気力すら起きず、内向的になっていた私を外に連れ出してくれた。

 

 

こうやって二回に分けて書いてきたからわかると思うけれど、ホテルのサービスは、素晴らしいものだった。

朝夜ごはん、スパ利用に加えてお部屋まで大きくしてもらって、普通だったら考えられない破格で宿泊した。

普通に考えて、対価として金銭が見合っていないのだ。

 

こんな下人が宿泊していいのかと何度も不安になったけど、ホテルの方々の笑顔でそんな不安は吹き飛んで100パーセントホテルを楽しめた。

 

日本人の心情は察しと思いやり

だなんて葛城ミサトが言っていたけれど、本当にその通りだと思う。

もちろん、対応やコロナ対策は抜かりなく素晴らしかった。

 

とにかく五つ星ホテルに感動しちゃって、お礼メールまで送っちゃったんだけど

コロナが去っても、何年後になるかわからないけど、また宿泊する日が来ると思う。

完全にこのホテルの魔法にかけられて、ファンになってしまったから。

 

 

思う事はもう一つある。

 

楽しい思い出は直ぐに忘れちゃって、悲しい思い出ばかり覚えている

 

人間の本来の性質だと思うし、私の癖であると一ヶ月前に書いた。

もちろん楽しい思い出そのものは今でもちゃんと思い出せる。思い出せたからかけた。

 

だけど、その思い出はやはりある程度の切なさを帯びてきているのだと思った。

勝手にエモくしちゃってごめんね〜思い出。

まあ今となってはご都合主義の非現実主義者正義感マシマシであることを自覚しているのでなんでもいいんだけどね。

 

幸せすぎると、人は悲しくなってしまう。

四国やハイアットがそうだったように、この超絶モラトリアムに大してバイトもせずに

幸せを噛みしめちゃうと、自分の未来に絶望する。

 

だけれど、これからもきっと幸せはあるし、もっと自分は幸せになれると信じるしかないのだと思う。信じないと生きていけないんだと思った。

 

私はきっとこれから、もっと幸せになれる、そう信じて生きていきたいと思う。

 

コロナ禍の「パークハイアット東京」滞在記①

 

 

楽しい思い出はすぐに忘れちゃって、悲しい思い出ばかり覚えている。

 

私はハッピー野郎でもなんでもないので、すごく感傷的になってしまうし

否定的になってしまう。

 

「思い出の基本原則は、修正可能ということ。」

 

最近私は繰り返しこれを申し上げているが、本当に人の記憶というものは信用ならない。

悲しい思い出はどんどん悲しいまま、風化し再構築される。

 

ならば、とびきり楽しい思い出を文章に残しておくことが必要だと私は考えた。

今回私は、「パークハイアット東京」に宿泊してきたので、記録しておこうと思う。

 

 

 

パークハイアット東京

パークハイアット東京は、ハイアットグループの中でも最上級の5つ星ホテルにランクづけされている高級ホテル。

 

高校生の時に泊まった「ハイアットリージェンシーバンクーバー」や食事をしたことがある六本木の「グランドハイアット」よりもランクが上になる。

 

 

それは、西新宿にそびえる新宿パークタワーの41から51階に位置する摩天楼。

調べたらうちの大学のなんとかタワーのほぼ倍の階数がある。

 

つまり全ての部屋が超高層階にあるというなんとも贅沢なホテルなのだ。

 

建築はすぐ隣にそびえる都庁の設計もした丹下健三

三連タワーは中でつながっているので実質一本なのだが、最上階が三つ存在することになる。

 

完成したのは1994年ということで外資系ホテルの中ではかなり初期のものらしい。

 

そんなインターナショナルな雰囲気を持つこのホテルには、映画オタクとして特別な思い入れがある。

ソフィア・コッポラの2003年の映画「ロスト・イン・トランスレーション」の舞台になっているからだ。

ロスト・イン・トランスレーション : 作品情報 - 映画.com

 

「ゴーストバスターおじさん」ことビル・マーレイ演じるくたびれた名俳優と、スカーレット・ヨハンソン演じる若妻の、東京でのロマンティックな出会いを描いた作品。

 

初めて見たのは2年前くらい。

「東京」または「新宿」が持つ雑踏のざわめきや都会の冷たさ、そして「翻訳で失われる」感情や表現に苦悩し孤独を味わう二人に、とても深く感情移入をした記憶がある。

 

まあこんな感じで「高級ホテル」「映画の舞台」といったステータスに憧れつつも、まさか自分が泊まることになるとは思わなかったのだ。

 

コロナが流行するまでは…!!

ありがとう!GOTOトラベル…!!

 

かねてから行きたかったフランス旅行の夢が立ち消えた今、もうこれはいくしかないと思ったのだ。

都会の異世界、近くて遠い世界へ

 

 

チェックイン

 

当日は気合を入れすぎて、朝から銀座で髪を切り

カラーをして、追加料金のかかるトリートメントまでぶちかましてきた。

 

最高のコンディションである。

もうだって本当にずっとずっと夢だったから楽しみで準備してる時からワクワクしてた。

 

新宿駅から徒歩15分ほどということで、歩く気満々だったのだがまさかの友人が遅刻。

やばい!タクるか!

ドケチの私がタクシーを止めた、チェックイン時間から存分に楽しみたかったのだ。

 

ゆらゆらタクシーに揺られること3分ほど。

 

ParkHyattTokyo.JPG

 

でかすぎて見上げられなかったため画像は引用。

 

いや、タクシーで来てよかった本当に。

まず高級ホテルに宿泊するのが初めてなのがバレバレな滑り出しである。

ドアマンの人に荷物を運んでもらうにもあたふたである。

 

すぐに案内されて41階までの専用高速エレベーターに乗る。

ドアが開くと、そこは一番低いタワーの最上階「ピークラウンジ」が目の前に広がる

 

とにかく!開放感が半端ない!

きれいな写真がないんだけど、とにかくタワーの上が全てガラス張りになっていて、竹とか生えちゃってるので開放感が半端ないのだ。

 

テルマンに導かれてチェックインカウンターに向かう際も、いろいろ説明してくれる。

普段は富士山が見えるらしいが、前日はサイレントヒルレベルに霞んでいたためかなり空は霞んでた。(それも摩天楼感があってすごく素敵)

 

通路には、なにやらおしゃれな本が並ぶ「ライブラリスペース」。

有名なパークハイアットの名所。

 

このホテルは全体的にアートワークが多い。絵画とか難しそうな本とか。

ラグジュアリーホテル「パーク ハイアット 東京」で満喫する極上の眺望とリラックスタイム | Mondo Alfa

 

チェックインは席に通されてから、少し待たされた。

コロナ対策もしなければいけないし、その分宿泊者に説明したりソーシャルディスタンスを保つのもすごく大変から、かなり忙しいと思う。

 

でもホテルマンの方々は本当に物腰柔らかでフレンドリーな感じ。

緊張しつつも、この頃には少しずつ「都会の異世界」に場慣れしてきていた。

 

 

パークルームデラックスツインへ

 

一通りの説明がおわって、まさかのサプライズがあった。

「本日はデラックスルームをご用意しています」

 

!!!??

 

これか、俗にいう、アップグレードというのは。

元々、パークルームキングという一番安い部屋で予約していたのにも関わらず、「窓がでかい部屋がいい」というわがままでツインにしてくれとメールを送っていた。

 

しかも、「ドコモタワーがみたい」というわがままつきだ。

安いパークルームからは新宿駅方面は見えず、代々木公園方面なのを知らなかったが故、無知のわがままだ。

 

そんなわたしのわがままを全て聞いてくれた、もう本当に感謝でしかない。

感無量だった。もうその気遣いで私はもう満足しきっていたよ。

 

部屋の扉が開くまでの時間、もう興奮が止まらなかった。

 

お部屋の様子がこちら

 

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半端ないって、ドコモタワーが小さいって。

もうレベチで高い。

ドコモタワーと、都庁と、コクーンタワーと、東京タワーと、スカイツリーが全て一気に同じ部屋から見える。

 

正直泣きそうだった。

スカヨハが泊まった部屋じゃん。

 

1時間くらいずっと外を眺めていたと思う。

少しずつ変わる空の色とか、首都高をいく車の流れだとか、いろいろみてて全く飽きない。

もう興奮しすぎてあんまり写真がないんだけど笑

 

お部屋の中はかなりシンプルなんだけど、洗練されて無駄がない感じ。

ランクルームとお風呂とベッドルームに分かれてるんだけど、すべて引き戸でまっすぐ一直線になっている。

 

アメニティは全てイソップ。

綿棒からスプーンやコップまで何から何まで揃っている。

ウイスキーグラスから日本茶用、ワイングラスまで手の届くところにある。

 

コーヒーマシンはネスプレッソだった。

すごいや。

タオルは重量があるしっかりタイプで、バスローブが超暖かい。

 

もういろいろ探検してたら既に2時間近くが経過してた。

 

 

プール&スパ へ

 

コロナ対策で30分くらい待ったんだけど、日が落ちてから2個目のタワーの最上階45階のプールに向かった。

ここはクラブ会員か宿泊者限定の施設なんだけど、通常だと追加料金がかかるらしい。

今回は利用資格も込みのプランで予約したため、全てコミコミである。

 

全面的に撮影禁止だったから写真がないんだけど、本当にすごかった…

 

韓国ドラマのCEOがバタフライ泳いで水が滴ってそうな雰囲気よ…。

夜景を眺めながら泳いだり、ジムマシンを使ったり、最高の贅沢すぎて震えた。

髪を染めたてだったし、化粧を落としたくなかったので本格的な利用は次の日にした。

 

スパは噴水みたいなジャグジーが中心に、三種類のサウナが備え付けられている。

スパもすごいんだけど、更衣室がとにかく広い。

床がふかふかだし、コスメ系がすべてここもイソップで、使い放題。

湯冷ましのラウンジもあって、雑誌が読めたので一丁前にGINZAを読んでやった。

 

 

「ジランドール」でのフレンチ・ディナー

 

スパで少しスッキリした後はおめかしして41階の「ジランドール」へ。

今回は夕食と朝食セットのプランだったんだけど、なんと乾杯シャンパンまでサービスしていただいた。

 

・スモークサーモンとビーツのテリーヌ

・スズキのポワレ チョリソー風味

・鴨肉のロースト

・チョコレートケーキとほうじ茶アイス

・パン(食べ放題)

 

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お母さん、私外側からナイフとフォーク使えたよ。

細くて小さいバゲットみたいなやつ3回くらいお代わりした。

「お腹いっぱいになられましたか?」ってコネクトされたけど、そりゃそうだ。

多分バゲット一本分くらいは食べた恥ずかしい。

 

ジランドールからももちろん夜景が見れる。

夜景の見えない席は開放されていなかったから、ホテルの稼働率もそこそこなのかもしれない。

 

 


「ニューヨークバー」

 

ロスト・イン・トランスレーション」の中で二人が出会うのは、タワーの最上階の「ニューヨークバー」で。

マーレイが孤独の晩酌をしているなか、ヨハンソンと目が合うシーンだ。fresh

 

大人の雰囲気漂うバーが今回いちばんの楽しみで、すごくドキドキしていた。

 

エレベーターで向かい、ドアが開くと、照明が落とされ、夜景しか見えない空間。

そして響き渡る、本物のジャズミュージックが感じられた。

 

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シンガーとバンドによる生演奏。

初めてこういうジャズの演奏を聞いたかもしれない。

実際はもっと暗くて、異世界そのもので、異様な空気が流れていた。

 

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友人の「コスモポリタン

わたしは「ニューヨーク」を頼んだ。

 

おつまみに柿ピー空豆がついてくるんだけど、これがまた美味しかったんだなあ。

お腹いっぱいだったのに、お酒飲みながら演奏を聞いて、1時間くらいいたのかな。

 

大人の雰囲気すぎて浮かないか心配してたけど、そんなことは気にできないほど素晴らしい空間だった。

 

 

おやすみやさん

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「都市の空気は自由にする」ってずっと嘘だと思ってたけど本当かもしれない。

パークハイアットはもう、完成された摩天楼で、私たちは殿上人ならぬ天上人になった気分だった。

 

部屋に戻るとちらかしたベッドシーツやアメニティは全て揃えられていて、寝る準備は完璧だった。

最後にワインを飲みながら、いろいろ話したんだけどなんの話したか忘れちゃった。

たぶんどうでもいいけど、どうでも良くない話だと思う。

 

ただただ、街よりも時間がゆっくりと流れ、全てが正しく進んでいくように思われた。

 

この頃には12時をすぎていて、働くおっさんたちが作る夜景も少しずつ落ち着いていった。

都会もちゃんと眠るんだなと思った。

 

もうこの景色を見るのは最後かもしれないな、と思いながら夜景を目に焼き付けて、私も眠った。

 

 

②に続く(予定)

 

書を捨てよ、町へ出よう

 

 

かぞえている

ダンス教習所の二階の電線の上の

つぐみを

かぞえている

その日起こった殺人事件を

かぞえている

いままで変えてきた仕事を

かぞえている

生まれてから今日までに

ひとから貰った手紙の数を

かぞえている

拾ったことのあるお金を

かぞえている

家出してからの月日を

かぞえている

トルコ風呂に行った回数を

かぞえている

泣いた日を

かぞえている

新宿のネオンの数と欲しい本と

買いたいシャツとハイミナールと

行ってみたい国

かぞえられるものが

人生以上で

かぞえられないものが

人生以下だと思うと

洟がつまって深夜映画館の中で

膝を抱いたまま

泣けてきた                 (青少年のための自殺学入門、序詞)

 

 

 

寺山修司との出会いは、この序詞だった。

なんだか、私のことを話しているんだこの人は、そう思って胸が詰まったのを今でも鮮明に思い出せる。

当時の私は高校二年生、暗闇の中をさまよっていた。

熱狂的な寺山ファンの友人から借りた本が、「青少年のための自殺学入門」で

この本は思春期の私に衝撃的な真実を告げていった。

 

寺山ファンの友人は、かなりの多動である。

多分アスペルガーだし、今まで出会った友人の中でずばぬけてぶっとんでいて

ハロプロが大好きで道重命で、大森靖子をよくきいていた。

好きな漫画家は丸尾末広楳図かずお

仲良くならないわけがなかった、そんな彼女は芸大に行き、ゴールデン街のバーで働き、そして普通に就職してしまうらしい。

 

なんだかあれだけぶっ飛んでいた友人が世間一般の、所謂型にハマっていくのはかなり違和感がある。

私はどれだけ寺山を読んでも彼女のようにはなれないだろう。

 

 

寺山について書こうと思う。

このような衝撃的な序詞で出会い、それから数冊本を読んだ。

全く全部じゃないのだが、3~4冊は読んだと思う。

小説ではなく、随筆や歌集なので、文学ではあるのだがとなりで寺山が話しかけてくる、そんな感じだ。

 

私は今でもわすれられない。

それは高校二年生の春休みだ。

勉強に落ちこぼれ、大学受験に対して絶望していた時、

「書を捨てよ、町へ出よう」を一冊持って一人旅へと出かけたのだ。

京都へと向かう新幹線のことを、今でもよく思い出せるのだ、お金はなかったけど青春はそこにあった。

それから数年たった今、遠くに出かけることは叶わず、書物を手にすることしかできない今年の7月を悔やみながら本作の映画版を見た。

 

寺山曰く

「書物は情念を解説に堕落させるもの」

らしい。

 

ストイックに叙事的に書かれた物であれ、文学の力を最大限に叙情的に書かれた物であれ、

言葉は肉体を離れた瞬間没落していく。

肉体的な感情や心理を言葉にした瞬間、それは説明として、解説としてつまらないものになると。

だからこそ、その寺山の論理が通るのならば、説明的な映画は全くの駄作ということになる。

例示するならば私が最近見た中だと「華麗なるギャツビー」「劇場」「悪魔はいつもそこに」が挙げられるだろう。

これは全くの寺山の論理なのだが。

 

そんな意見を持つ寺山の映画は、全くの人の予想を超える物である。

「書を捨てよ、町へ出よう」が70年代のヒッピーカルチャーや青年期の性的衝動・ドラッグ等の自己破滅を描いた物であれば、

田園に死す」ではもっと原義的なものに立ち返る。それは自身の出生や女性蔑視やムラ文化、とりわけ寺山が育った青森の寒々とした空や恐山を舞台としている。

これらの作品は、究極の劇映画で、アート作品で、自己解放運動で、自己セラピーと言えるだろう。

解説は「解説」として機能せず、ただただ言葉が観客に投げかけられる。

それはある種のインスタレーションのように機能するのだ。

 

「自己セラピー」と呼ぶのには理由がある。

寺山は「田園に死す」でこのようなことを述べている

記憶というのは、所謂自分の操作によって裏打ちされているだけであり

映画人はそれらを自在に操れるようにならなければいけない。

 

最近で言えば、「TENET」のクリストファー・ノーランが映画の中で時間という概念を自由に操ったように、映画というのはまさに幻想である。

あたかも日常を切り取ったように見せかけても、それは全て作られたものであり、映画人はそららを自由自在に動かすことができるのだ。

 

自身の記憶だって人の中では不変のように見えて、実はぐにゃぐにゃだ。

「思い出の原則は、修正可能ということ」については前のブログでも触れたが、人の記憶力とその改変能力は想像以上に信用できないものである。

 

だからこそ、映画人は記憶というものをしっかりと理解し、自分の経験について整理をしなければいけない。

そうでなければ他人の、あるいは大抵は実在しない人物のぐにゃぐにゃの記憶や人格を紡いで一つの作品に仕上げるだなんて不可能だからだ。

 

だからこそ、寺山修司の作品は全て自己の体験に裏打ちされたものである。

 

海外の監督で言えばアレハンドロ・ホドロフスキー監督が代表的だ。

彼の「ホーリーマウンテン」「エル・トポ」は公開当時、その実験性ゆえに多くの映画人を動かした。究極的に自己を見つめ直し、映画に還元するというスタイルは寺山にも影響を及ぼしたとされる。

 

ホドロフスキー監督は紆余曲折あって映画を撮らなくなったのだが、寺山の死後数十年が経って、ある作品が公開された。

「リアリティのダンス」と「エンドレス・ポエトリー」だ。

これらは、私は完全に寺山の「田園に死す」が影響を与えたのではないかと考えている。

この二作はホドロフスキー少年が大人になる過程をファンタジックに描いているのだが、完全に寺山の手法と同じだからだ。

 

 

つまり、何が言いたいかというと、自分の記憶を棚卸し、再構築するという作業は神の領域であるということである。

自伝を書くこと、そこから堕落した解説にしない為に派生して新しく「映画」をつくることは一般人には不可能なことだ。

 

私は自分自身を知るのが怖い。

これだけブログを書いても、実際のところ自分のことなんか少しもわかっていないのだ。

就活の自己分析なんかはとてもとても、つらくて毎日涙が出そうだった。

 

しかし自分のことを理解することは世界との向き合い方を考え直すことにつながるのではないかと考えている。

人は一人では生きていけない。自分を理解してやっと他人の存在に目を向けることができるのだ。

ある程度自分をしることができれば、ハプニングが起こったりしても自分のことを相対的な観点から分析することができる。一種の悟りのようなものだ。

最近はそれが少しはできるようになった気がする。寺山のおかげだろうか。